そう言えば、小さな頃は『よしゆき』って呼んでたのに、いつから『トリ』って呼ぶようになったんだっけ。 気だるい身体を引きずって、火照った頭を覚ますべく勢い良くシャワーを浴びている時に、ふと思った。 トリという呼び名は、幼い頃から使っている。『はとり』という名字の、後ろ二字。 呼び始めた当初の記憶はひどくあやふやだが、確か幼稚園の頃まではお互いの名前を呼んでいた。それがいつしか、トリは吉野、俺は羽鳥と呼んで、羽鳥からトリと呼ぶようになって……。 シャワーのコックを締める。お湯は止まっても、浮かんだ素朴な疑問は収まらない。 浴室から出て寝室に入り、大きなベッドの脇に立っていた人物にも聞いてみた。 「なあ、トリ。俺ってなんでトリのこと、『トリ』って呼ぶようになったんだっけ?」 「なんだ、いきなり」 ぐちゃぐちゃになったシーツを直していたトリこと羽鳥芳雪は、いきなりの質問に顔をしかめた。 俺がいきなり脈絡のない話をするのはよくあることなので、トリはしかめ面ながらも律儀に答えてくれる。 「……確か、『芳雪』は長くて呼びにくいからとか、そんな理由じゃなかったか?」 「あれ、そうだったっけ……?」 トリの親が心を込めて付けた名前を、幼い俺は呼びにくいからという理由で呼ばなくなったのか。もし本当にそうなら、もしかして酷くないか、俺。 ことの真偽を確かめようと記憶を振り返っていたら、気付けばトリが首を傾げていた。 「どうして急にそんなことを思ったんだ?」 「え…っと、」 先程さらりと答えたトリとは逆に、俺は答えに窮する。 ―――今夜それを考えた原因はというと。 それは、つい先刻までここで行われていた行為の最中に、トリが俺のことをいつもは滅多に言わない呼び名で呼んだからで。 その行為を、眼前のこの男の前で思い出してみせること程、気恥ずかしいことはないと思う。 かっと熱くなった顔にかぶりを振っていたら、トリは目線でじっと続きを施している。 どうしてこう、俺が喋りたくない時に限って黙ってみせるんだ、こいつは。俺が一人で気まずく思うばかりじゃないか。 まだだんまりしているトリに、結局沈黙に耐えかねて、観念して言う羽目になった。大きな声で言いたくないので、努めて小声で。 「………だってそれは、トリが変な時に『千秋』って呼ぶから…っ」 ぼそぼそと口に出した台詞は耳敏いトリにしっかりと拾われていて、また首を傾けられた。 「変な時?」 「…何でもないっ!お前もとっととシャワー浴びちまえよ」 追求を逃れるべく布団に逃げ込もうとしたのに、トリに腕を掴まれて阻まれた。 「おい、待て。そんなに頭を濡らしたままで布団に入るな。布団が濡れるだろ」 頭にタオルを被せられて、そのままわしゃわしゃと拭かれる。子供みたいだしやめろと言いたいけれど、下手に言って説教になったら面倒だし、何より俺はまだ気恥ずかしいので口を噤む。 そうしてされるがままに突っ立っていたら、頭の上方からトリの声が聞こえてきた。 「……別に、俺はいつでも『千秋』と呼んでも構わないんだが、呼んだらお前がそうして一々反応するから、滅多に言えなくなった」 「だから!それはお前がいつも変な時に『千秋』って呼ぶせいだってば!」 「だから、変な時って?」 「……うっ……、それは…」 「ほら、そういう顔をするから」 役目を終えたタオルが首にかけられて、もう隠せない顔を上向かされた。 一見いつもと違わぬ無表情だけど、僅かに楽しげに目が細められたらトリの顔が、正面にやってくる。 「『千秋』と呼ぶ度にそうして一々恥ずかしそうな顔をされたら、たまらない」 「………だから、それはトリには呼ばれ慣れてないから、恥ずかしいのであって…」 「そうだろうな。だから、慣れさせないようにと呼ぶのを控えてる」 なんなんだ、その理屈は。 文句を言おうとして息を吸ったところで、トリの口が塞いできたので言葉が継げない。 おかげで名前は呼ばれなくなったけれど、反論も出来なくなってしまった。 そうして俺は、今夜二度目のシャワーを浴びる必要になるのだった。 企画「丸川ハットリくん」に捧げます。 (お題配布元 Chien11様) 2012.03 |