ヘリオトロープ
泣いたのは、久しぶりだった。
自分でも最初どうして瞼の奥がこれほどまでに熱いのか分からなくて、一気に視界がぼやけ潤み、頬を伝う液体が何なのか指の腹で確認してしまった。
もう、嬉しいのか悲しいのか。痛いのか、興奮なのか。
早く声が聞きたくて、きっと彼はこんな俺を見て笑うから、その笑い声を聞きたくて。
丸い目をくしゃりと細めて、形の良い白い歯を見せて優しい声で名前を呼んでほしい。
認めたら止めることも難しく、ああ泣けるのだと鼻先で笑った。
声をあげて泣けば、もしかすると彼は起きるだろうか。
ゆっくり、ゆっくりと瞳が細められた。
震えるかさついた唇に、いつかの時のように水分をのせる。
ふくりとした感触を確かに感じた。こんらっど、と彼は言った。
はい、と返事をすると、また彼は俺の名前を呼ぶ。
それを繰り返して、彼は、泣くなと俺を叱った。
小さく開いた唇の先で、赤い舌は久しぶりの食べ物を欲していた。味もしないのに彼は美味しいと、一口また一口とねだる。
思わず口をついて出ようとした言葉を飲み込み、乱れた前髪をかきあげて額をあらわにした。まっさらなその肌を人差し指で軽く押し、彼の名前を呼ぶ。
お姫様抱っこでベッドにあげるくらい、今日は我慢してもらおう。
脱走しようとした罰だ。俺を置いて。
まだ口をきいてくれない。
痛いだろうに起き上がり、日課のマッサージも食事も、執務も一人で行われていた。小さな体が無理をするのを見ていると、何はなくとも激しい自責の念に駆られる。
返してしまおうか。でもそうしたら、もっと後悔することになるだろう。結局自分は、どこまでも彼に甘いのだ。
それにしても『ダメ男を捨てる』なんて本を、一体どこで見つけてきたのだろう。
手を握っても、と控えめに笑うギーゼラに首を振る。
頬は熱く赤いのに、着替えの際に触れた末端は凍ったように冷たかった。今はただ、こうして祈ることしかできない自分を恥じる。
「では、何か変化があればすぐに」
「俺は何を」
「陛下のおそばに」
それで治るならば、俺は一瞬たりとも離れないよ。
色づいた瞼が咎めるように細く震えて、焦って身を乗り出した。
――――――――――――
いくらか細くなった背筋をまっすぐに伸ばして、彼は気持ちよさそうに大きく息を吸った。
朝日にきらめく髪の毛が柔らかく軽く揺れる。
ずっと一緒にいたはずなのに、変わらず少し前に立っている彼を見つめることが少し照れくさくなって気づかれないように下を向いた。
「秋だ」
「はい」
弱っていた顔つきももうその面影をなくす。
昨日まで輝きを失っていたのに、彼が顔を近づけて香りをかげば、花たちも誇らしげに咲き誇っているかのように見える。なんて、口に出しては言えないけれど。
「どこか痛くはないですか」
「どこも。もう一週間前には治ってたんだよ」
「でもギーゼラの用心ですから」
「コンラッドの、だろ」
肩をすくめてみせると、彼は俺に向かって手招きした。
「ありがとう」
「…欲しくないよ」
「うん。でも、ありがとう」
「俺は貴方を抱きしめて、死のうと思った。もう、貴方が目を覚まさないと思ったから」
「…それでも、」
一瞬だけ目を見開いて、ユーリは悲しそうに笑った。
「それでも、ありがとう」
「…行かなくては。約束だからね」
もう二人きりにはなれない。期限は過ぎる。
貴方が一人で起きられるようになって、歩けて、もう、大丈夫になったら。
お別れだと、小さく呟いた。
「俺を、助けなきゃ良かったって、一回でも思った?」
「…いいえ。何度も、声を聞きたいって思ったから」
「こんな結末でも?」
「ええ」
彼は瞳をふせた。
「つれてってって、言いたいんだけど」
「俺は誰とも剣を交えることはできないよ」
「つれてけよ」
連れていけと、彼は言った。
意志の強いその細い眉が歪んでいて、背後に闇を従えるせいか畏怖すらも感じた。
こんなに小さいのに、貴方は落ち葉のように軽くはない。
けれど手を離せばどこかへ飛ばされてしまいそうで、何度もきつく抱きしめた。呆れられるほど、苛立ちを感じるほど。
抱きしめても、今抱き上げることはできない。俺に、そんな力は到底ない。
いつかの続きではない。
今の俺は貴方をさらいたくて仕方がない。
敵軍として貴方と対峙し、貴方を斬りつけようとした味方の兵士を殺した。
貴方を斬った兵士を、原型がなくなるまでに。
誰よりも早く貴方を抱き上げ、敵国の衛生兵を呼びつけた。
背後をとろうとした兵士を遮る兄の声を聞きながらも、情けない面をさらしながらも、ユーリのそばに長くいるために何もかもを利用した。
強くなりきれない兄や弟や、師でさえ。
たどり着く場所が未来だろうと、二人だけの世界だろうとかまわない。
けれど、できない。
貴方をさらうのは大変だ。
グウェンダルには怒られるだろうし、ヴォルフラムは見境なく捜し求めるでしょう。ギュンターは泣き叫ぶでしょうし、グレタは寂しがるね。国民は悲嘆に暮れて、国はめちゃくちゃになる。
――――――笑って言えるこんな幸せな結末は、どこにもないんだよ。
愛していますユーリ。
誰よりも、貴方だけを。
一番厄介なのは自分なんです。
我儘を貫き通せるほど、この思いは軽くない。貴方を、軽くは愛せなかった。
「どんな結末が待っていても、開くしかない扉もあったんです」
それが、さよならでも。
幸せに一番近い場所で君の夢を見る
end
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