夏の訪れ
まるで、貴方に包まれているようだ。黒と、白の世界。
泣かないで、俺は悲しくないから。
ユーリ、笑って。
色を失くした彼は、困ったように微笑んだ。
「…あ、起きてる」
扉を開けると、彼は珍しくベッドの上で体を起こしていた。
「ユーリ。今日のお仕事は終わりですか」
「うん。なんだかはかどっちゃって。外に連れ出す奴がいないからねーなんて言われたけど」
「それは酷いな」
ベッドに腰かけると、彼の冷たい手の平が髪の毛を梳いてくれる。
心地よさに目を閉じると、彼が笑ったのが分かった。
「今日は調子いいみたいだな」
「ええ、気分もいいですよ」
「ご飯は?」
「全部、食べました」
おりこうさん、と頭を撫でてやると、頬にキスを落とされた。
少しかさついた唇は、少しだけ悲しい気分にさせた。
「じゃあ、早く回復してくれないと。ロードワークも遠乗りも、城の外に遊びに行くのも、全部約束してた事なんだから」
笑って言う。
彼はすぐに頬を緩めて、そうですねと呟いた。
夕陽に照らされた彼の髪の毛がきらきら光って、冷たい空気が二人を通り抜ける。
そんな日が帰ってこない事なんて、俺が一番よく分かってる。
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彼の寝顔を見つめた。
無防備に眠る彼の姿は一年前なら想像もつかなかっただろう、少しだけほうと息をつく。
治らない病気だという。
じわじわと浸食していくそれは体力を失わせ、視力や聴力さえも奪い、ある日突然体の働きを止めるのだ。
この間、彼は色を失った。
コンラッドは痩せた。
この数ヶ月で、劇的に。
昼夜問わず眠っている事が多くなり、食事も受け付けない。
けれど彼は、誰にも弱音を吐かない。
目が合ったら笑ってくれて、話してくれて、どこも悪くないとでも言うように明日の話をする。
愛していると、囁く。
「…っぐ、ごほっ…ごほっ…」
「コンラッド?」
「っ、ゆー、りっ…は、がっ…!」
背中を丸めて突然咳き込む彼。
額には汗が浮かび、苦しそうに眉根を寄せている。
立ち上がった途端に椅子が倒れて、酷い音をたてた。
「コンラッド!…コンラッ…!」
「ぎー、ぜらを、…っぐ、う」
ひゅっ、という音と共に、彼は血を吐いた。赤い、赤い血。
触れると分かる、背骨の感触。
彼の背中をさする手から伝わる、激しい心臓の動きが、どうしようもなく悲しかった。
「ま、ってて…いま、いま…」
「ユーリ?…!コンラート!おい、だれか!」
室内に入ってきた明かりと聞き慣れた声で、彼の弟だと気付く。ヴォルフラムはコンラッドに近寄り、胸元に手をあてた。
「全く、…人騒がせなやつだ。大丈夫だから、ユーリ。だから…」
ヴォルフラムの手から微かに見える薄い光。
強く目を閉じるコンラッドの顔は段々と落ち着きを取り戻し、糸が切れたように彼はもう一度眠りに落ちた。
ばたばたと入ってくる救護の人に背中を向けて、ぎゅっと拳を握った。
金色の彼が、俺の頭を優しく撫でる。
「…まだ泣くな、ユーリ」
死を待つしかできない。
俺には何もできない。
彼の命が尽きる瞬間を、俺は、ただ。
泣くな、コンラッドが泣けないだろ。
いつまで、こんな事を続けるんだ。いつまで、彼は苦しむ。
俺はいつまで、彼がいなくなる事を恐れなくてはいけないんだ。
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耳元で身じろぐ音が聞こえた。
ベッドに預けていた頭を起こすと、コンラッドと目が合う。
床につけたままだった膝が、少しだけ痛んだ。肩にかけられた軍服から、彼の匂いは消えている。
「すみません、ユーリ。ご迷惑をおかけして」
「…ううん、俺は何もしてない。お礼は、ヴォルフラムに言ってくれ」
「いいえ、貴方がいてくださったから、あいつは気付いたんですよ」
彼の手が俺の首の裏へまわされ、横たわる彼の方へ引き寄せられた。
ふわりと香る彼の匂いと共に、何かが嗅覚を掠めた。
まだ、知らなくていい匂いだ。
「コンラッド…」
彼の温もりがどうしようもなく愛しくて、彼の匂いがどうしようもなく悲しくて。唇を噛みしめた。
吐息さえも交わる距離で、彼は微笑む。
「…聞こえる?」
「ええ、貴方の声だ」
「…見える?」
「ええ、貴方が…ユーリが」
コンラッドは、泣かない。
執務中に血を吐き、自分の病気を伝えられた時も。
歩けなくなって、外が恋しいと言った時も。
吐く事が多くなって、色が分からなくなった時も。
いつでも彼は、出会った時のままの笑顔で、微笑んでいた。
彼がいなくなった後、思い出す彼がいつも笑っているように。
「…生きてる?」
「ええ…生きています。ユーリの隣で、いま」
これを、失うのだ。
これを、亡くすのだ。
これをなくして、生きていかなくてはならないのだ。
彼の頬に、水滴が落ちた。
瞼の奥から噴水のように溢れ出る涙が、彼を失いたくないと叫んだ。
離したくないと、この温もりを手放したくないと叫んだ。
「死ぬのは怖くない。ただ…貴方を悲しませる事が、俺は、ただそれだけが…」
「なんでだよ…!怖いだろ!死ぬんだよ、コンラッド…怖いって言えよ!なんで、なんで笑ってるんだよ…!」
彼は嘘をつくのが下手だ。
爽やかな笑顔の下で、大声で泣いていたのを知ってる。
俺の顔が、もう区別できないのを知ってる。
死にたくないと、死ぬのは怖いと、彼はいつでも叫んでる。
なんで、コンラッドなんだ。なんで彼が、誰よりも優しい彼が、死ななければいけないんだ。
「いかないで…っ!いかないで、いかないで!…お願い、だから!コンラッド、コンッ…いかな、で…!」
コンラッドの首にすがりついた。情けなく零れる嗚咽は止まらず、うるさい程同じ言葉を叫んだ。
あやすように撫でられる頭と背中が、彼の温もりを覚えようとする。
「…ユーリ、貴方には幸せになって頂かなければ」
「そんなのっ…!」
「それだけが、俺の望みなんです。貴方がこれから歩む道の、邪魔にだけはなりたくない」
コンラッドの腕が、俺を抱きしめた。
以前と変わらない力で、俺は彼に包まれているような気がした。
肺が潰れる程、背骨が軋む程、このまま、抱きしめられたまま、愛に溺れて眠りたい。
「俺はもう、貴方と同じものを食べて美味しいと笑う事ができない。貴方と同じものを見て、美しいと言う事さえできない。貴方と陽の下を歩き、貴方を抱く事さえ。…俺にはもう、貴方を傷つける全てから、貴方を守ることもできないんです」
彼の名前を、ただただ叫んだ。
ここに存在する彼が、俺の腕の中から抜け出さないように。
力の限り、抱きしめた。彼が愛しかった。それしか、なかった。
彼が顎の下に唇を落とす。はっきりと結ばない彼の端正な顔が、困ったように笑った。
「ああ、お顔がぐしゃぐしゃだ。ほら、ユーリ。涙を拭いて」
「…っ、こん、らっど…」
「ユーリ…キスマーク、つけてください」
鼻をすすって、言われた通りに彼の首へ顔を近付ける。音をたてて肌を吸い、唇を離した。
「ありがとうございます。…お上手ですね」
「あんたが…教えてくれたんだろ」
「ええ。抱きしめ方も、キスも、セックスも、…愛し方も。だから、大丈夫ですよね」
なにがだよ、と開きかけた唇を奪われる。変わらない彼のキス。
「幸せに、なってください。俺の事なんて、忘れて。…貴方の輝かしい未来に、俺はいないから。ねえユーリ、俺は貴方が大好きです。愛しい、ああ…何度も言います。ユーリ、貴方の事を…」
見なくても分かる、彼は変わらずにここにいて、笑ってる。
離さないで、置いていかないで。
あんたがいないと、俺は何もできない。
笑って、笑って。ねえ、死なないで。
「貴方の手が、瞳が、唇が、心が…俺から離れていつか俺の知らない他人のものになる。けれど、貴方をただ一人残して行く俺には、惜しむ権利すらないから。…すみません、ユーリ。貴方だけは、いつまでも護り抜きたかった。貴方の傍で、貴方と笑い続けたかった…」
やめろって言われたってあんたの名を呼ぶよ。のどが嗄れたってあんたの名を綴るよ。
腕が千切れたってあんたのことを思うよ。この命が尽きたら、天国の君に会いに行くよ。
ねえ、お願いだから。
だから、一人にしないで。
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昼下がりの風が、開け放った窓から室内に入り込んでくる。
微かに懐かしいような匂いがして、夏がやってくるんだと感じた。
彼の膝に置かれている小説が風に吹かれてページをめくられ、乾いた音をたてている。
一緒にご飯を食べて、笑って、少しだけキスをして、いつもと変わらない静かな昼下がり。
「風、強くなったね…窓閉めようか、コンラッド」
夢を見たよ。空が青くて、風が気持ちよくて、世界は穏やかで、そして彼がいて。そんな夢を見た。もう二度とかなわない夢を見た。
「コンラッド?」
彼は今日も、俺に愛してると囁いた。
俺は彼に、愛してると微笑んだ。
「…コンラッド?」
しあわせな、しあわせな
夏の訪れを告げる風が吹く昼下がり。
end
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