小説 | ナノ


▼ 人はそれを恋慕の情と云う




時計が時を刻む音が、静寂な空気に包まれた部屋に響く。秒針が刻む一定の音は、時に孤独や寂しさを思わせ、眠れぬ夜は物思いに耽ってしまうこともしばしば。今だってそう。不安と期待に満ちた私の心は、時を刻むこの音に、ふわふわと宙を舞うように不安定だ。針がもう直ぐ天辺を回ってしまう。

(ああ、今日も会えないかな…)
 
次第に期待は不安に押し潰され、今日もまた会えないのかと肩を落とした時だった。コツン、窓に何かが当たる音がして、弾けるように顔を上げ、慌てて窓に駆け寄る。抜け出したベッドから布団が落ちる音がしたけれど、今はそんなことには構っていられない。

「錆兎さん…!!」
 
バンッ!と勢い良く窓を開けると、そこには今し方会いたいと願った彼が、木の枝に腰掛けてこちらに手を振っているではないか。あまりにも勢い良く窓を開けたせいか、一瞬驚いたようにその大きな目を見開いた後、いつものように錆兎さんは眉を下げて優しい笑みを浮かべた。
ああ、この時をどれ程焦がれたか。

「随分とお転婆なお嬢様だな」
「…錆兎さんの意地悪」

肩を揺らして笑う錆兎さんにムッと文句を言うと、彼は隠すこともせずくつくつと笑い始めた。錆兎さんと出会ったのは二週間前。この部屋を抜け出そうとしたところ、見事に失敗して地面に落下した私を助けてくれた(というか下敷きになった)命の恩人錆兎さんは、『鬼狩り』という仕事をしているらしい。
この世には鬼というのものが存在するらしく、俄かには信じられない話だったけれど、錆兎さんの話があまりにも具体的で、どうにも嘘をついているとは思えなくて、私は夢中になって彼の話に耳を傾けた。
外の世界を殆ど知らない私にとって、錆兎さんから見える世界はとても広く、まるで同じ地球で起きていることとは思えないことばかりだった。

「毎日毎日、同じことばかりで退屈なんです」

そう呟いた私に、任務の合間でもよければと、こうして話し相手になってくれるようになった。土産話にもならないと錆兎さんは言うけれど、私にとって錆兎さんの話はとても面白くて、まるで自分が冒険に出たようなわくわくした気持ちになってしまうほど。それに、何よりこうして錆兎さんと過ごす時間は、私にとって大切なのだ。

「もう、笑いすぎですよ。…鬼狩様は、これからお仕事ですか?」
「くくっ、すまない。思ったより勢い良く出てくるから、つい。…ああ、任務はこれからだ。少しだけ時間ができたから、顔でも見て行こうと思って。まだ起きてたのか?」
「起きていましたよ。だって零時までですもの…」

そう、錆兎さんがこうして会いに来てくれるのは夜中の零時まで。それ以降は私の身体に障ると言って、来てくれないのだ。錆兎さんに会えるのなら、何時でも起きているのに。だけど、約束のないこの逢引では、そうもいかないらしい。

「最近、任務の前は会合や集まりが多くてなかなか来れなくてな。で、お嬢様は今日一日何をしてた?」
「今日は朝から花道のお稽古に、お昼からは伯爵夫人とのお茶会、それからは――…」

いつもと変わりません。だらし無く、窓の淵に項垂れながらそう呟いた。毎日、同じことばかり。同じ人たちに囲まれて、決められたことをこなして、それが私の毎日だ。何一つ不自由ない、つまらない毎日。
錆兎さんと出会ってから、自分がいる世界が如何に小さなものか、よく分かった。私は世間のことを殆ど知らない。いつの間にかカーテンを握る手に力が入っていたようで、カーテンレールがギシリと悲鳴を上げた。

「今日は、満月だ」
「え?」

錆兎さんの声に、ぱっと顔を上げて空を覗き込むが、ここからでは月は疎か、伸びた枝葉で空も殆ど見えない。なんとか見ようと身体を乗り出すと、ぐらりと視界が揺れて、慌てて窓にしがみ付いた。

「おい…っ、あまりヒヤッとさせるな」
「す、すみません…。ここからじゃ見えなくて…」

きっと錆兎さんがいるところからはよく見えるのだろう。そういえば、久しく夜空に浮かぶ月すら目にしていない気がする。できれば、錆兎さんと一緒に見たかった。錆兎さんが見る世界を、少しでも。そう肩を落としていると、スッと目の前に手が差し出された。無骨で、小さな傷が沢山あるその手が、あの時のように。

「お嬢様は、危機管理というものをもっと持った方がいい」
「……っ、はい。気を付けます。…なので、錆兎さんも落とさないでくださいね?」
「俺を誰だと思っている」

その手の平に、自分の手をそっと重ねると、力強く握られ、気が付いた時には目の前に錆兎さんがいて。
本当に一瞬の出来事だった。宙を浮いたかと思った瞬間、引き寄せられるように膝の裏と背中に腕が回り、あっという間に錆兎さんの横に座っていたのだから。

「ふ、二人乗っても大丈夫ですか?この枝…」
「ほぉ、窓から飛び降りる勇気を持つお嬢様は、案外小心者か…」
「なっ、違います!それに、飛び降りたんじゃなくて、足を滑らせたんです!!」
「くくっ、そうかそうか、すまない。大丈夫だ。この木は随分立派だからな。人間二人支えるくらい何ら問題ない」
「…本当、錆兎さんは意地悪です」

悔しくてもう一つくらい文句を、そう思って振り向くと、そこには想像とは違う優しい笑みを浮かべた錆兎さんがいて、思わず目を逸らしてしまった。

(は、反則です。その顔…!)

 速くなる鼓動に、熱くなる頬。ああ、そういえばこんなに近くに錆兎さんがいるのはあの日以来だ。数メートルの距離がもどかしいと思っていたのに、いざ側に来るとどうしていいか分からなくなる。

「ななし、顔を上げてみろ。ここからだと、月がよく見えるぞ」
「……あ」

錆兎さんの声に顔を上げると、そこには瞬きすら惜しむほどの月が、良夜に浮かんでいた。僅かにかかる霞み雲ですら、月を引き立てるようにそこに有り、そのあまりにも美しい光景に息を呑んだ。

「……雲がくれにし 夜半の月かな」
「ん?」
「和歌、です。女学院に通っていた頃、習いました」

めぐりあひて見しやそれとも分からぬまに。

夜半の月に、ささやかな再会に零れ落ちた恋心を重ねた和歌。
まるで私の今の心情のよう。

「…錆兎さんは、お月様のようです」
「俺が月?」
「はい。お国を照らす、お月様」
「そんな大層なものじゃない」
「でも、鬼狩様は国民の平和を守って下さっています。変わりありません」
「俺一人では救える人の数など限られる。あまり多くを望むと手からこぼれ落ちていってしまうな」
「ふふ、謙虚なのですね」
「…俺が月なら、貴女は月華だろうか」
「げっか…?」
「ああ、この月のように、息を呑む美しさがまるで――」  
 
錆兎さんは、そこまで言うとバッと口許を手で隠し、何でもないと呟いた。いつもの自信満々の錆兎さんはそこにはおらず、月明かりに照らされた頬が仄かに色付いているように見えるのは、きっと気のせいではないだろう。
そして、私の頬も錆兎さんに負けないほどに色付いているのだろう。

「…こぼれ落ちるくらいなら、最初から自分が抱えられるもの…、大切なものしか俺は守らない」
「そう、ですか」
「だが、守り抜くと決めたなら、男として生涯守り抜く」

そして、勇ましい眼差しの中、垣間見える優しさに、私は心底恋い慕っているのだろう。






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