▼ 03
「ただいま戻りました」
引き戸を開けると、バタバタと忙しない足音が廊下に響き、ここの主人が顔を覗かせた。
すっかり短くなった黒髪をぴょこぴょこと跳ねさせて、その心許ない表情に思わず笑みが零れる。
「大丈夫でしたよ、義勇さん」
目の前の彼が気になっているだろうことを伝えると、途端に安堵したようにその眉尻を下げた。
きっと、私がここを出てからもずっと気が気でなかったんだろう。家で自分の帰りをまだかまだかと時計を何度も眺める姿が想像できて、また笑みが零れた私に首を傾げる彼を愛しい以外の言葉でどう表現しようか。
そんなことを思いながら、揃えられた草履の横に自分のそれを並べていると、あることに気がついた。
「あれ?靴はまだ卸していないのですか?」
「あぁ、今日はそっちで行こうかと思って」
そっち、と指された草履に目をやり、今度は私が首を傾げる。
「せっかくこの日のために買ったのに」
「靴紐が結べないと思って…」
「私がやりますよ。それくらい、出来ます」
「でも、屈むのは良くない」
「でしたら、座ってやればいい。ね?」
私の言葉に観念したのか、彼は困ったように笑ってありがとうと呟いた。
「それで、先生は何ともないって?」
「えぇ、悪い張りではないそうです。少し様子を見ましょうって」
差し出された手に捕まり、式台に上がる。これくらい一人でも出来ることなのに、目の前の彼は本当に心配性で、私もついそれに甘えてしまう。
右手には義勇さんの手、左手には買ったばかりの革靴を手に、少しだけ見慣れた襟足を眺めながら居間へと向かった。
和紙を敷き、その上に靴を並べる。膝を付き、腰を降ろすとこんこんと内側からの振動に宥めるように腹を撫でた。
「お父さんの準備しなくちゃね。楽しみね」
艶やかな光沢は上品でそれでいてシック、というのだろうか。傷一つない美しさに飽きずにずっと眺めていられる気がする。
この日のために新しく買った靴にシャツ、ズボン。まだ義勇さんがそれらを身に付けているところは一度も見ていないけれど、きっと似合うんだろうな。
垂れた靴紐に手を伸ばそうとしたら、襖が開いた。
「ななし、少し休もう」
「でも、靴が…」
「まだ時間はある。茶でも飲もう」
そう言って柔らかに笑った義勇さんに、心臓が小さく音を立てた。
あれから、義勇さんが纏う空気は本当に柔らかなものになった。自惚れているわけではないけれど、自分の前ではそれなりに豊かな表情を見せてくれてはいたが、それでも時折、どこか遠くを見つめるような憂を帯びたその瞳に、少しだけ、距離を感じてしまうことがあった。
私の知らない義勇さんがそこにはいて、未だに目に見えぬ何かを見つめていた。
「では、お言葉に甘えて頂きましょうか」
差し出された手を取り、日が差し込む縁側に二人腰を降ろす。
庭の桜の木は名残り惜しそうに桃色を覗かせながら、すっかりと新緑に色付いている。
「あら、おはぎ?」
「あぁ、今日不死川に渡そうと思って」
「ふふ、久しぶりですもんね。元気かしら、不死川さん。でも、程々にして下さいね」
相変わらずその意味を理解していない義勇さんに吹き出しそうになるのを堪えた。
桜の木から聞こえる鳥の囀り、風で揺れる木々の囁き、身体を包み込むような日差し。
隣の愛しい人に、まだ見ぬ我が子。
なんて、平和なんだろう。
多くの仲間が命を堕とし身を削り、その引き換えに訪れた平和。
皆が願って止まなかった未来はこんなにも近くにあったのに、どうして平等に与えられないんだろう。いつだって。
「そういえば、炭治郎たちは一緒に住んでいるらしいな」
「そうみたいですね。きっと賑やかなんでしょうね」
鬼殺隊解散後、噂では炭治郎と禰豆子、善一、伊之助は竈門家に住んでいると聞いたが、あの4人での生活はさぞ楽しいものだろう。何となく想像できてしまうのが可笑しい。
まだあれから1ヶ月しか経っていないというのにお館様が招集をかけてくれたということは、皆完治したということなのだろう。重症だっただろうに、驚異の回復力だ。
散り散りになった皆と会うのはあの日以来で、私も義勇さんもこの日を楽しみにしていた。
皆、今頃何をして過ごしているのだろうか。
あたたかく柔らかな空気に心が解けていく気持ちになる。きっと、義勇さんも同じだろう。ずっとずっと、苦しんできた分、この平和を噛み締めるように。
かつて共に戦った仲間たちの姿を思い浮かべ、早く会いたい気持ちに駆られる反面、一つの不安が胸で渦巻いた。
「…今日、本当に私は行ってもいいのでしょうか?」
木々がさわさわと風に揺られる中、胸につっかえていた本音を呟いた。
柱でありながら、最終決戦に参戦できなかった私が、本当に今日行っても良いのだろうか。
決戦の日、お館様の訃報を知りながらも駆けつけられなかった。
戻ってこない義勇さんや隊員たちのことを、ただ無事に戻ってくるよう願いながら待つことしかできなかった。
私は、結局…
いつの間にか握り締めていた手の上に、そっと置かれた左手に顔を上げると、そこには優しく微笑んだ義勇さんがいた。
「俺は…二人が待っていてくれたからこそ、頑張れた」
「義勇さん…」
「一度、意識を手放した時、錆兎と蔦子姉さんに会った」
それは、私の知らないあの戦いの最中。
添えられていた手が、ゆっくりと膨らんだ腹へと移動する。
「二人に背中を押されて向かった先には、お前とこの子の姿があって…抗うように必死に足を進めていたら、気がついたときには目を覚ましていた」
じんわりと、心地よい体温に視界が歪んでいく。
「ななしと、この子がいてくれる、それだけで十分だ」
何て優しい人なんだろう。
紡がれる言葉が、ゆっくりと胸の中の蟠りを解いていくよう。
「自分は何もしていない、そんな風に思わないでくれ」
「はい…っ」
包み込むように抱き締める左腕は、力強くて優しくて。
もっと、ずっと、この先も一緒に、この腕の中であなたに愛されていたい、叶うはずないのに、そんなことを願って涙が零れ落ちる。
閉じられた瞳に、目蓋を伏せれば、濡れた睫毛に触れた柔らかな感触
「義勇さん、」
平和や幸せは
「ずっと、お慕いしております」
どうして平等じゃないのかな
その命が尽きたとしても、私はきっとあなたのことを
一生忘れることなんてないだろう
凪いだように静かな瞳が、僅かに悲しみに揺れた気がした。
「お母さん、この着物なーに?」
「それはお父さんがお仕事なさってたときの服よ」
「ふーん、右と左違うよ?…変な柄。あ、ねぇ、刀がある!!お父さんお侍さんだったの?」
「ふふ、そうねぇ。立派なお侍さんでね、とってもかっこよかったのよ。その着物はお父さんの友人の形見なのよ」
「じゃぁ、お父さんの宝物なんだね」
「えぇ、だからここに大事にしまっておきましょう」
―――大切な思い出を、ここに、ね
どうして、どうして私は忘れていたんだろう
こんなに大切なことを
「う…っ、ふぅ…っ」
抱きしめた古寂びた着物に滲む涙
知ってる、全部知ってる
この家も、この着物も、ここにあったもの全部、愛して止まなかった
願って止まなかった幸せがここにはたくさんある
「義勇さん…っ」
遅くなってごめんなさい
今、やっと戻りました
あなたも、この世界のどこかにいますか?
私がここにいる世界にあなたがいないなんて考えられないから
例え私のことを覚えていなくとも
あなたが生きている、それだけで私は
突然涙を流す私に、狼狽る友人にどこから話そうか、そんなことを考えた。
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