▼ 第二夜、ラピスラズリと蝶の夢
私は一心に、一冊の分厚い本を読み耽っていた。
図書室はどこまでも静寂に満ちていて、だからかいくらでも集中できそうな気がしていた。いつもは呼んでもいない眠気を呼ぶ光でさえ種類の違うものに思え、体を包む制服の衣ずれすら気にならない。兎にも角にも、私を妨げるものなど何もなかった。
と、目の前を美しい蝶が横切った。空の色を写し込んだような、それは見事な色だった。一度、もう一度。その翅がふわりふわりと空を切る度、色がくるくると変わる。空の色といっても、単なるスカイブルーではなかった。朝焼けや夕焼けや夜空なんかを映したような色を、まばたきの一瞬のうちに変えてみせるのだった。
私はどうしてもその蝶が欲しくなってしまった。先程までの集中力はどこへやら、私は急いで立ち上がる。見失ってしまっては敵わない。そう思った。
その蝶を追うままに長い廊下を通り、大広間を抜け、広い草原へ出た。蝶はまるで見えない道があるように躊躇いなく飛んでいく。追っていると、まるで綿毛の着地か何かのように、それは一冊の本へ止まった。そして厚く固い紙に吸い込まれるようにして蝶が本の表紙に溶けて消えてしまったのを見て、私は思わずあっと声を上げた。
するとその本を読んでいた彼が、私の姿を視界に止めた。涼やかな瑠璃色を持った、美しい人であった。彼の「ああ」という言葉はごく自然に発せられ、故に私を待っていたように感じさせた。そして加えて言うならば、その予感は当たっていた。
「もう来たんだね。さあ、おいで」
彼は私に向けて大きく腕を広げたが、生憎すぐそこに飛び込む勇気を私は持ち合わせていない。私は視線を咄嗟に少しずらす。なんだか気恥ずかしかった。
「おいでと言っているじゃないか」
彼が心底不思議そうに首を傾げる。それに合わせ、絹糸のような髪がさらさらと揺れた。彼が少し動くたび、透き通った瞳、長く艷やかな髪、そして指先の爪を彩るフェルメールブルーが、待ちわびていたかのように煌めきを放つ。見れば私の爪も同じように光っていた。私と彼は同じ種の生き物らしいと思った。
それはどこか私に安堵感を持たせてくれ、私は一息に彼の体に抱きついた。そのことに彼は心底満足したようで、柔らかく息を吐いた。
「覚悟はあるかい」
彼は私を抱きしめたまま、顔すら見ずに問うた。私も顔を見ないまま、彼に向けて聞き返す。
「なんの?」
彼は一瞬黙り込み、少しして「恋人としてのさ」と続けた。驚かなかった。私は彼と恋人であることを、数百年も前から知っているような気がしていた。私は躊躇わずに頷く。それは私にとって、恋人としての礼儀であった。
彼は安堵したように笑った。けして澄ました微笑みではなく、笑顔と呼んでも差し支えのない表情だった。
そうして、私たちはそのまま抱き合っていた。
手持ち無沙汰になったのか、彼は私の髪を指に巻いて弄ぶ。私は元来他人に触られるのが嫌いだったが、恋人だからまあいいかという気になっていた。彼はそれを知ってか知らずか、私とやっと顔を合わせた。近くで見るといっそう、ぞっとするほど端正な顔立ちだった。
「君が望むものならなんでもなってあげる。恋人でも家族でも、なんなら友達だって兼ねてあげる。さあ、君の好きなものは?」
優しく問われ、思考する前に、咄嗟に口から言葉がついて出た。私の頭を一瞬のうちにして、あの色が巡ってしまったらしい。
「私、蝶が好き」
音にしてから、しまったと思った。しかしいくら見渡せど、彼はもうどこにもいない。
代わりに瑠璃色の蝶が煌めきと共に、私の前を横切ったのみであった。
ラピスラズリと蝶の夢
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