mediumnovel | ナノ


▼ 第七夜、シンシャと幻覚の夢

「誰?」

 まるで息を吐くように一言、そう零した。

 真紅の瞳が印象的な美しい人は、何も答えずに私を見つめている。その瞳はどこか悲しそうに見えた。

「きっと俺が、お前を呼んだ」

 質問の答えになっていない、ただ、揺れるような震えを帯びた声だった。

 ここはどうやら外らしい。夜空に大きな穴が空いたように、ぼっかりと月が浮かんでいるのが見えた。そこから降り注ぐ光のみが洞窟に差し込み、その宝石の髪を照らしていた。反射、屈折、極彩色。影にいたときは一色の赤、それから周りに摩訶不思議に浮かぶ銀色だけが見えていた。が、今は真珠色や闇の色、そして私の色を反射して、何色も混じっているように思える。

「お前はいつも俺に優しい」

 かちり、宝石の瞳が瞬いて、周りに煌めきを散らした。

「先生と同じように。だからあの日……」

 彼が私を確認し、ぐっと息をつまらせる。そしてその静寂を切り裂き、絞り出すように呟いた。

「あの日、お前が俺の毒に触れなければ。お前はずっとここにいたのに」

 私はここに確かにいるのに、どうしてそんなことを言うのか。私はここにいるよ、なんて、芝居がかった言葉を言うのはとてもじゃないが憚られた。彼の背負った酷く大きな悲しみはそんな言葉で薄めることはできないと、薄々感じ取ったのであった。

 彼の指が躊躇いがちに私の口元に触れる。私はまるで呼応するように、なんとなくその指先を口に含んだ。彼は一瞬驚いたように目を丸くしたが、すぐにそのまま指を差し入れた。

 内側から犯すように、何度も何度も擦られる。彼の手付きも目の奥の光も熱に浮かされて荒っぽい。なのにその瞳からは、絶えずぽたぽたと銀色の雫が垂れていた。私の知っているそれとは違うけれど、きっとこれは涙だ。私がそれを拭おうとしたのを、彼は手を払うという動きで拒んだ。嫌というよりも、私を壊すことを危惧しているようだ。彼の手が離れる。温もりは消え、代わりにじんわりとした触覚だけが残っていた。

「悲しい、辛い、夜から出たい」

 思わず視線を動かし、そしてはっとした。彼の足元の草花はことごとく枯れ、その茶色に変わった葉の部分を風に揺らしていた。

「お前がいない世界なんてなんの意味もないんだ」

 彼の体がかたかたと震えている。待って、と口を開く前に、彼が私の手を強く強く掴んだ。

「だから、こうしてお前がいるだけでいい。十分すぎるほど十分だ。そう、たとえ」

 目と鼻の先に彼の美貌がある。悲しそうに下げられた形の良い眉も、泣くのをこらえようとするみたいな口元も、作り物みたいに綺麗だった。

「たとえお前が、俺の幻覚だとしても……」

 そう彼が口にした途端、さっきまで普通に触れ合っていたのが嘘のように、自身の体が掠れた。夜霧に混ざるような変な感覚に、ああ、私は彼の幻覚だったらしいと気がついた。幻覚でも口に出さなければ実体を持つかもしれないのに、彼は嘘をつくのが嫌いらしい。彼が手を伸ばし、触れる寸でのところで、私は夜霧に溶けていく。

 彼が私の名前を呼んだ。そこで初めて、私は自分の名前、それから彼の名前を思い出した。

「シンシャ」

 私が夜に溶けたなら、彼の閉じ込められている夜も孤独なそれではなくなるだろう。それで彼が救われたなら幸福かもしれないと、手放す意識の中で思った。
シンシャと幻覚の夢


←prev / next→

[ ▲List ][ ▼Top ]



×
BLコンテスト・グランプリ作品
「見えない臓器の名前は」
- ナノ -