メメント・モリ

Magic.1 飲み干したバッドエンディングに溺れる
 蝶である自分は花から花へひらひらと移り飛んでいた。はっと目が覚めてみると自分の姿は人間であり、夢であったことを知る。はたして人間である自分が蝶になった夢を見ていたのか、それとも蝶である自分が今人間になった夢を見ているのか――
 あまりに有名なその説話は胡蝶の夢と呼ばれ、人々はふとしたときにそれをぼんやりと思い出しては、終わりのない思考へと身を委ねるのだ。今日(こんにち)では、人生の儚さや、夢とうつつの境が判然としないことへのたとえに用いられている。


◆ ◇ ◆



 聖28一族に名を連ね、家系図を辿れば中世までさかのぼることのできる歴史に、大きな屋敷を構えることのできる莫大な財力。純血を中心とした魔法界ほとんどの一族と血縁関係にあり、実質魔法界の王族とまで言われる由緒正しい名門家――
 ここまで説明すれば魔法界に身を置く者なら非魔法族マグル生まれと言えど何のことを指しているのかピンとくるはずだろう。ブラック家だ。
 そんなできすぎたゴテゴテの重たい看板を男系の末裔という立場で背負うことになったのが一九六一年のこと。『Tonjours Pur純血よ永遠なれ』という家訓のもと、その看板に見合うだけの教育を二つ上の兄と共に受けてきた。しかし同じように育てられてきたはずの兄にはそれが我慢ならなかったらしい。
 幼い頃から家に反発し続けた兄はホグワーツ魔法魔術学校入学の際にはあろうことかグリフィンドール寮に組分けされ、母――ヴァルブルガ・ブラック。ややヒステリックな面がある――を酷く悲しませた。
 それは代々スリザリン寮で緑のネクタイを締め続けていたブラック家では異端中の異端であったし、きっと組分けに居合わせた生徒たちは家族に手紙を書きたい気持ちを抑えるのに必死だったに違いない(実際に日刊予言者新聞はこの事を大きく取り上げたのだから)。
 ブラック家の出来損ないと呼ばれた愚兄ぐけいに打って変わって僕がブラック家を継ぐことになってから、母は必要以上に僕の言動に敏感になった。僕はそれらに応えてきたつもりだ。一般的に見れば過剰な純血教育と捉えられようと、もともと思想が同じなのだからそこまで苦でもなかった。
 兄の入学から二年後、クリーチャー――僕に良くしてくれている自慢の屋敷しもべ妖精だ。後ろをトテトテと付いてくる様子はなんとも愛らしい――の入れた紅茶を飲んでいた僕のもとにも無事ホグワーツの入学許可証が届き晴れて一年生となった僕であるが、兄のような波乱を起こすわけでもなく、組分け帽子は僕がそれを被るや否や、「スリザリン!」としわがれた声で喚呼した。
 入学後はずっと直系ブラック家の跡継ぎとして恥ずかしくない成績をとっていたし、熱狂的とまではなれないものの嫌いではなかったクィディッチのシーカーも務めた。誰の視点から見ても極めて優秀な生徒であったと思う。
 組分け事件や悪戯いたずら仕掛け人としてホグワーツ内で有名になっていた愚兄ぐけいが僕の入学前から僕を“純血主義で頭のお堅いいけすかない弟”と言いふらしていたらしいため、純血主義以外の人間には僕の印象は最悪だったに違いないが。まあそのおかげでマグル生まれとの関わりをほとんど持たずに済めたのだからそういう点では兄に感謝をしなくてはならない。

 一族の望む姿へと成長した僕は婚姻を結ぶ相手も選び抜かれた者たちを更に厳選した純血が並べられたし、在学中だけでも、と言い寄ってくる者も少なからず存在した。
 魔法界一の名家の跡継ぎという衣装に惹かれたのか、それともブラック家に共通する眉目好い相貌に惹かれたのかはわからない。前者は大抵成り上がりの貴族なので当たり障りなく断っても後がしつこいのが困りどころだ。後者は兄の方へ行ってもらいたい。
 純血主義者として育てられてきた僕はいつからか純血思想を掲げる闇の帝王を崇拝し、あのお方のことが記事となれば一つとして溢さずスクラップした。そしてあれよあれよという間に手首に闇の印を賜った。
 十六歳、在学中にして死喰い人デスイーターとなったのだ。
 お仕えできることになった時はクリーチャーと共に童心に返って喜びはしゃぎ合ったのが懐かしい。
 手首の傷が痛む度――あのお方からの召集の合図だ――頭の芯が甘く痺れるような恍惚感を味わっていた僕は心の底から陶酔していたのだと思う。
 ホグワーツは原則長期休暇しか家に帰れない決まりとなってはいるが、暇さえあれば、否、時間を作ってでも本拠地となっていた屋敷へと通っていた。
 死喰い人デスイーターになる前に七年生までの課程は個人的にこなしていたため、出席さえ足りていれば勉学面では何の問題も無い。むしろ現役の闇払い達と戦っているわけなのだから、震えることしか能が無い大人たちよりもずっと実力は上回っているつもりだ。課題を提出しに学校へと行っているような期間さえあった。
 もちろん母がそれをとがめることは一度も無く。
 僕が十四歳の夏についに家を出てポッター家に転がり込んだ――翌年には叔父の支援を受けて一人暮らしをしていたらしい――愚兄ぐけいのせいで更に不安定になっていた母にとっては、最年少で死喰い人デスイーターとなった僕が心の支えであった。

 ある時、屋敷しもべ妖精を必要としていたあのお方にクリーチャーを差し出した。それは僕にとっても、そして何よりクリーチャーにとって名誉なことであったため、僕はクリーチャーに闇の帝王のお言い付けになることは何でもするよう命じて送り出したのだ。
 しかし、順風満帆に思えていた人生も十七歳にして最大の転機が訪れる。
 僕の命令で帰ってきたクリーチャーは、僕が崇拝していた闇の帝王に、なんと分霊箱を守る呪いの実験台として殺されかけていたのだ!
 ああ、ああ、何ということだろうか! あのお方にとってハウスエルフは単なる消耗品以外の何者でもなかったらしい。
 愛してやまない存在が愛してやまない存在を傷つけることの絶望を僕は初めて学び、しかしそれはあまりに重く、そして遅すぎた。
 主人(ぼく)の前だというのに細く小さな体躯はぐったりと力なく床に落ち、加齢で皮がたるんではいるものの普段ならばぎょろぎょろとせわしなく動き回る大きな眼球は、まぶたが閉じられていて僕を映さない。骨の浮き上がった薄い胸は呼吸のたびに小さくへこみ、酸素を取り込むのもようやくという状態まで弱りきった大切な者の姿は僕を闇の帝王に失望させるのにはあまりに十分すぎた。
 憎悪、怨嗟えんさ、激憤、厭忌えんき疾悪しつお――単に殺意とまとめてしまうにはあまりにどす黒い巨大な劫火ごうかが、手足の先から心臓まで、僕という人間一人のありとあらゆる器官を焼き尽くさんとしていた。
 兄曰く“いつも澄ました高慢ちきな良い子の弟”であった僕が、これほどまで暴悪な敵愾心てきがいしんに焼かれるなど、一体誰が想像できただろうか!
 深淵そのものを飲み込んだとすら思える絶望と呼ぶに相応ふさわしい感情が骨髄から際限なくあふれ出し、同時にぐつぐつと大鍋で心を煮たような怒りに体が震えた。

 ――そして数日後、僕は彼をどうにか滅ぼしてやろうと、十七年ばかりのちっぽけな命を使うことにしたのだ。

 その際クリーチャーに最後の言い付けとして家族には決してこの事を話すなと命じたから、きっと僕の死は“闇の帝王や自分の行動に恐れをなして身を引こうとしたために同じ死喰い人デスイーターに殺された”とでもなっていることだろう。兄が僕を臆病者の愚かな弟だとわらっている姿がありありと目に浮かぶ。
 しかしそれでいい。闇の帝王を裏切ったとなればいくらブラック家の人間といえどただでは済まないだろうから。
 いつか全部を知った兄が、自分は“馬鹿な弟”にずっと護られていたのだと泣き叫ぶ日がくることを願っていよう。


 生まれてから十八年目、しかし十八回目の誕生日を迎えることなく、ましてやホグワーツを卒業することもなく呆気なく死んだのが僕、Regulus Arcturus Blackレギュラス・アークタルス・ブラックという男だった。




(どうか僕の分まで長生きしてくださいね、兄さん)



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*補足

・<バッドエンディング【Bad Ending】>
 =バッドエンド。日本語としてはバッドエンドのほうが広く使われていますが、名詞としてはバッドエンディングのほうが自然かな、と。

・レギュラス(主人公)の誕生日は公式発表されていないため、二歳年上である兄のシリウスとの学年差が一つか二つかの設定は主に好みで分かれるところですが、原作で散らばった細かい時期描写を計算していくと日数的に年齢通り二歳差である可能性が高いのでは、ということで当サイトでは二歳差を採用いたしました。二歳差の計算で進むとホグワーツを卒業してないことになるっぽいです。

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