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 一週間ほどで人攫いの肉は尽きた。正確に言うならば、明日あしたの朝が最後の食事となる。「最後だし」なんて言って初夜しょやと同じメニューを仕込むアイヴィーの、髪をサイドで緩くまとめて前に流した背を時折見ながらソファーの上で本のページをめくる。
 人間は雑食だ。ゆえにとても食べられたものではないのではと初めこそ思ったが、部位によって多少の差はあれどそんなことはなかった。たしかに、穀物や果物だけを与えたほうが上質な肉になるのかもしれない。しかし、能力の無駄遣いとも言える完璧な血抜きやその他の処理もあってか、豚と大差なく食べることができた。
 飽きなかったかと問われても飽きなかったと自信を持って答えることができるだろう。毎食さまざまな肉料理が食卓に並び、かつ、多く消費したほうが喜ばれるという状況は成長期の男にはうってつけではないだろうか。オレたちは間違いなくこの街で一番の贅沢をしていた。
 この泊まり込みだった約一週間を思い出して小さく笑いを溢す自分に、ふと以前とは決定的に何かが変わった感覚を覚えた。しかしこれが本来の軌道だとでもいうように違和感は存在しない。
 人を殺した。人を食べた。だのにそれがごく当たり前の生活であったかのように感じてしまう。アイヴィーはこの部屋の暖炉でおかしな薬でも焚いているのではないだろうか。――否、おそらくアイヴィー自身がそうさせているのだ。
 クロロ=ルシルフルという存在を欠片も溢すことなくすべて肯定している。本人は無意識だろうが、麻薬はアイヴィー自身だ。
 例えば明日あしたオレが生真面目な人間に変わっていたとしても、口では茶化したり驚きこそすれ、それがクロロ=ルシルフルであったのだ、今までと何が違うのだという空気を出すのだろう。そしておそらくオレは今回のように、それが本来の軌道であり、ごく当たり前の生活であったと考えるに違いない。
 ――嗚呼、これでは天使なのか悪魔なのかわからないな。
 白い翼も黒い翼も生えていないアイヴィーの背中を見て、さっさと風呂に入らないとアイヴィーがうるさそうだ、と読みかけの本を閉じる。半端なところだったが、風呂上がりのデザートを没収されるよりはいいだろう。


◆ ◇ ◆



 髪を少し乱暴に拭きつつ、冷蔵庫の方へと向かう。アイヴィーの髪を乾かすときは丁寧に扱うが、自分のなら特にこだわる必要も無い。
 アイヴィーはオレが長髪が好きだと思っていそうだが、それは正しくない。似合っているのなら何でもいいのだ。短かかろうが、長かろうが、染めようが、染めまいが、直毛だろうが、癖毛だろうが。
 こう言うと『へえ、俺にショートカットは似合わないと言いたいのか?』なんて不機嫌にさせてしまうだろうか。そうなったら『誤解だ』と懸命に訴えて許してもらうしかない。事実誤解なのだ。長髪も短髪も、どちらもおそらく甲乙こうおつつけがたい。それならば少しでも多く好きな対象が存在してほしいと考えるのは変な思考だろうか。
 少し伸びる度に「そろそろ髪を切りたいんだけど」と口を曲げるアイヴィーの申し出を断り続けて、ようやく互いに見つけた妥協点は腰に届かない程度だった。塔に閉じ込められた女のように、あるいはミュシャが描く女たちのようにたっぷりとした優雅な長髪ですら良いのではとオレは思うが。
 これ以上は流石さすがに邪魔だと怒られてしまったことを思い出して懐かしんでいると、ガチャン、と食器の落ちる派手な音が聞こえて足を早めた。


「…………」
「皿を落としたのか?」
「……あ、クロロ。ごめん、驚かせたな。あー……欠けてる。シチューに使おうと思ってたのに」


 至極残念そうに皿の破片を眺めるアイヴィー。もともと目が垂れがちなせいか、少し顔を哀色に染めるだけでも、今にもふっとその目から涙がこぼれ落ちてしまいそうで心臓に悪い。この顔をされてしまうと柄にもなく慌ててしまう自分がいるのだ。『大丈夫だから泣かないでくれ』と言っても大抵の場合アイヴィー自身は泣きそうになってもいないのだから『は?』と言われるのがオチなのだが。
『泣きそうだ』だとか『泣いてしまうかもしれない』というアイヴィーの言葉は、オレにとってはタチの悪い脅迫だ。たとえ本人にその気が無くとも。


「別の皿を使うか念で出せばいいさ」


 下手な慰めだと思いながらも、垂れるアイヴィーの頭に手を乗せる。このようなときアイヴィーなら相手にとって気持ちのいい言葉を並べてすぐに励ましてしまうのだろう。オレがこの家にやって来た時のように。
 ありきたりなことしか言えない自分に呆れながらも、それらを誤魔化すようにそのままするりとサイドで結った髪へと手を滑らせた。最後に毛先を指先で絡めとってから一度くるりと回して手離すも、当たり前のように癖がつくわけでもなく、すぐにそれは元に戻ってしまった。


「……まあそうだけど。どうせなら初夜しょやと同じ物を使いたかったんだ」
「一枚や二枚皿が変わるだけでけがされるような思い出でもないだろう? あとはオレが片づけておくよ」


 そう言って破片へと手を伸ばす。しかしすぐにその手は冷えた手に取られることとなった。


「……どうした?」
「怪我……するほどお前は間抜けじゃなかったな……。反射的に、つい」


 アイヴィーは苦笑を浮かべて頬を掻く。「俺が割ったし気にしなくていい」とオレの手を離した。


「なんだ、そんなことか。どうせこの後はデザートを食べるだけだったんだ。お前はゆっくり風呂にでも入ってきたらどうだ。手もかなり冷えていたし、温まってくるといいんじゃないか」
「だからデザートは風呂上がりって昨日きのうも言っ…………ああ、もうお前風呂入ってたのか。今日読んでいる本はつまらなかったのか?」
「いや、興味深いものだった。むしろいつもより遅くなってしまっている」


 続けて「文句を言われるかと思ったんだが」と眉尻を下げると、アイヴィーは「もうそんな時間か」と目を丸くして、壁掛け時計へと視線を移す。「気づいてなかったのか」とオレまで驚いた。


「……うわ、本当だ。ダラダラ仕込みすぎたみたいだ」
「……最後とはいえほどほどにな」
「ああ。じゃあ甘えさせてもらおうかな。風呂に入ってくるよ。皿、怪我には気をつけて」


 エプロンを脱ぎ、パタパタとスリッパの音を響かせてアイヴィーは脱衣場へと消えていく。さっき皿で怪我をするほどお前は間抜けじゃないと自分で言っていなかったか、なんて思いつつ大きな破片を拾う。
 青銀色でぐるりとつる植物の装飾が施された皿はアイヴィーの言う通り、初夜しょやにシチューで使われたそれだった。割れたこの皿はあの夜どちらが使っていた物なのだろうか。数度使っただけの皿なのに、とても馴染み深い物のように思えた。なぜかはわからない。


「あ、プリン、俺のもお前が食べてくれ」


 破片を集めていると聞こえた声に、顔を脱衣場の方へと向ける。脱衣場の薄く開いた扉からヒラヒラとたのしげに数度振られる生白い腕に返事をすると、すぐにその手は引っ込められた。


「……オレは間抜けだったらしい」


 再び視線を落とすと、手に持っていた破片で切ってしまったのだろう、皮膚からは赤がぷくりと浮き出してきていた。気づいてしまえば、ぴり、と甘やかな痛みが訪れる。
 丁度つる植物の描かれた部分の破片を見て、先ほど湧いたばかりの“なぜ”に行きつくと、割れたそれに哀しみを覚えるのだった。

(P.38)



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