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 激しい雨音と落雷音のはざまで弱々しいノック音を聞いたような気がして、蝋燭ろうそくと暖炉の炎を頼りに本をめくっていた手を止める。
 パチパチと散る火花の音一つとして溢さぬように、そうっと耳を澄まして数秒。しかし木製の分厚い扉を叩くのはもっぱら風で、時折ガタガタと喚くだけだ。
 気のせいかと再び活字に視線を下ろそうとすると、薄氷はくひょうを確かめるかのように慎重にドアノッカーをぶつけるカツンという小さな金属音が、三度鼓膜を震わせた。
 その消え入りそうな、まるでこちらに怯えては飲み込まれる時をひたすらに待つような音に、よく聞き取れたものだと不思議に思いつつも本を閉じた。
 星どころか月も見えない静かとは程遠いこんな夜、それも、皆ぐっすりと寝息を立てているであろう時間に訪ねてくる礼儀知らずは一体誰なのだろう。
 ひざの上に掛けていたブランケットをめくる。温もりが離れ、すう、と触れた空気にひやりと血が冷えた。ゆらゆらと重たく揺れる椅子からひょいと立ち上がると、広げたブランケットを羽織り、皿型の手燭てしょく片手に扉へと向かった。二つの仰々しい錠をどちらも開け、雨風が入らぬよう細く扉を開けば、客人まれびとが孤独に立っていた。


「――クロロ……? クロロ、か?」


 慣れ親しんだシルエットに、勢いに任せて扉を開け放つ。
 室内から漏れる頼りない橙色は訪問者の輪郭を闇夜からすくい上げてはくれない。手燭を訪問者へ近づけることでようやく見えた顔は、色の悪い血が透けていた。
 しばらく待ったものの、目の前の幽霊のような男からの返答は無い。肌にべっとりと髪や衣服を貼り付かせながらも沈黙を守る姿に、もう一度俺から口を開いた。


「……何があった? 街中まちじゅうの雨を独り占めでもする気か?」


 加えて「ティフォンとゼウスの観戦はお前であろうと勧められないな」と茶化すように肩をすくめてみせると、白光びゃっこうが空を切り裂き、一際大きな落雷の音がとどろいた。


「あー……っと……ゼウスも必死なんだ」


 口では「まだ加減はしてくれてるみたいだけど」などと言いながらも、割れるような落雷の音に、今のは木に落ちたなと頭の片隅で考える。


「人を……人を殺してしまった」


 ただならぬ事態であることは察せられたが、ようやく口を開いたクロロから出た思いもよらぬ一言に、「は、」とぶつ切りの短い言葉が反射的に漏れた。まるでガツンと後頭部を思い切り殴られたようで、チカチカと目の奥に雷霆らいていの閃光とも似た光が走る。
 それは表には眩暈めまいという形で現れたが、うつむくクロロを前にドアノブをしっかりと握りこんで身体を支え、何とか一度きつく瞬きをするだけにとどめた。うつむいてくれていて良かった、とこっそり安堵あんどの息を吐く。


「そうか。とりあえず入るといい。ホットミルクを用意しよう」


 切り替えろ。自分にそう言い聞かせる。今一番不安なのは俺じゃない。
 何事も無いような声色で「風邪引くぞ」と付け足してクロロに背を向ける。薪を足していても直接聞こえ続ける雨風と雷の音にクロロを見やると、いまだに茫然自失ぼうぜんじしつといった状態で立ちすくんでいた。


「……この天気じゃ海を渡って逃げられないし、俺たちは動物に姿を変えられないんだ。せめて屋根のある所にいたくはないか?」


 ゼウスが神々の世界を支配するかという時、あらゆる神々の母なる女神ガイアの怒りによって、怪物ティフォンが産み落とされた。底知れぬ力を持っていたティフォンが炎弾と噴流で世界を炎に埋め、天上へと突進して暴れ回ると、恐れをなした神々は動物に姿を変えて逃げたらしいのだ。
 そうしてようやく扉の内側へと歩を進めてくれた。扉が閉まれば、多少は外の音が遠ざかる。水を飲んでいないロバのように、クロロの足取りは重たい。
 玄関で鬱々うつうつと水溜まりを作っているクロロに体全体を包めそうなほどのタオルを投げ渡し、髪や体を服の上から拭いてもらってから絨毯じゅうたんに上げる。
 先ほどまで俺が座っていた暖炉の前のロッキングチェアに腰掛けさせると、木材がきしむ音を立てた。風呂に入らせてしまうのが一番手っ取り早く温まらせてやれるのだろうが、まだ目を離すのは恐ろしくて、薪を足すに止める。


「あとは自分で薪を調節してくれ」


 自身の肩に掛けていたブランケットをバサリとクロロの頭に被せ、キッチンへと向かう。
 片手鍋の中でコトコトと弱火にかけられる牛乳をヘラでかき混ぜながら時折クロロの様子を見るものの、ブランケットを手繰り寄せた状態から置物のように眼球一つとして動かない。
 人種の違いか、どのような光のもとでも俺のほうが肌は白いが、それとも比にならないほど、今のクロロは彼岸から帰ってきたばかりだとでも言うように血の気が失せてしまっている。それは冬場の悪天候に長時間さらされたからなのか、恐ろしい経験ことをしたからなのか、はたまた両方かはわからない。
 沸騰する前に火を止め、少しの間その状態でかき混ぜる。手間だが混ぜながら温めれば膜ができずに済むのだ。俺は別に膜が張っていても構わないが、人に出すなら見映えがいいほうがいいだろう。
 深めのマグカップ二つにホットミルクを注ぎ、砂糖とほんの少しの塩を入れる。


「……蜂蜜は多いほうが好きそうだよな」


 蝋燭ろうそくあかりでいつも以上に黄金色に輝く蜂蜜が、ホットミルクの中でどろりと溶けては沈んでいく。
 最後にバニラエッセンスを数滴垂らして香り付けし、スプーンで静かにかき混ぜれば文句は無いはずだ。


「クロロ、これ。落ち着けると思う……無いよりは」


 そう言ってマグカップを差し出せば、先ほどよりも幾分か血の気の戻った顔でそれは受け取られた。


「温かいな……。…………旨い」


 ほっと息をつき頬が緩んだのを見て、俺も一口飲む。人工的ではない優しい甘みがゆっくりと喉を伝って、胃の中でじんわりと広がった。


「あ、そうだ」


 飲みかけのホットミルクをテーブルに置き、暖炉の上のケースを手に取る。それを投げ渡すと、興味を引かれたのか、装飾も何も無いシンプルなアルミニウム製の薄いケースを裏表何度もひっくり返しながらまじまじと観察し始めた。
 開けるぞ、と言いたげに一度俺を見上げるクロロに了承の意味で微笑んでみせる。するとそれはマグカップを持っていない左手だけで器用に開けられた。


「……煙草、か?」
「そう」
「吸っていたのか?」
「いや」
「なら、貰い煙草? ああ、いつかの貿易の時か?」
「ご名答」


 五本、横一列に並ぶそれをクロロは一本手に取り、指の間でもてあそぶ。成長期を迎えて、細かっただけの折れそうだった指は無骨な男の手へと変わりつつある。周りと比べて多少栄養の不足はうかがえるが、出会った頃に比べれば少しはマシだろう。


「海の外では十七は喫煙可能なのか?」
「国によるんじゃないか。ここなら赤子が吸っていても誰も文句言わないだろ」
「それもそうだ」


 しばらくの間、クロロはそのまま煙草を指の間で行き来させる。
 暖炉の火は薪を食らい尽くさんと燃え盛り、ロッキングチェアに前屈みに座るクロロの輪郭を暖かく照らし出した。眼球に映りこんだ橙色がゆらゆらと波打つ。パチパチと火花のぜる音が雨音を飲み込んでしまいそうだった。


「んぐ、ぐ」


 手招きに素直に従ってそばへ寄ると、伸ばされた手によって口に紙巻が差し込まれる。それは歯に当たって口内への侵攻は防がれたが、ぐりぐりとしわが入るのも気にしないで乱暴に押し付けるものだから、仕方なしにうっすらと口を開けてやれば、満足したように目が細められた。
 意図せずひゅう、と口から吸った息が煙草を通して甘い香りをはらみながら喉奥にぶつかった。


「火をけてやろう」


 俺が何かを言う前に、クロロはテーブルの上に置いていた四本の枝付き燭台を掴み、煙草の先へ、ジリ、と熱を移しだした。俺はほかの枝で燃える三本の蝋燭ろうそくが髪や肌に触れて焦がしてしまわないかと少しの身動きも許されなかった。――酷く不安定だ。
 拒絶への恐怖が見え隠れする瞳とじっと目を合わせる。俺の目の前にいるのは人殺しだ。故意にしろ、そうでないにしろ、人を殺すことが実際にできてしまう者であることに違いはない。
 人、殺し。人殺し。その重荷に今クロロは潰されそうになっている。人一人の人生の重さは計り知れないだろう。フィクションでは日常動作であるかのごとくあっさりとしたものであるが、目の前に死体――それも、自らの手で無理矢理生命活動を絶たせた動物のもの――が転がるのはどれほど恐ろしいことなのだろうか。
 作り話にしろ体験談にしろ、俺たちはフィクションですらその重さの全部を受けとり感じることは叶わないのだ。


「……ッ」


 吸った途端に喉を焼き肺の中に流れ込んできた濃い煙に、思わず激しく咳き込んだ。クラクラと立ちくらみのような感覚に襲われて、思わずクロロの足もとにしゃがみこむ。
 火をけなかったときは甘く感じた物も、今はただの苦く熱い煙でしかなかった。


「うええ、まっっず……! んあ……気持ち、悪……」


 すぐそばにあったクロロの大腿だいたいを繰り返し叩く。八つ当たりされても文句は言えないはずだ。
 しかしけほけほと空咳を繰り返す俺に、クロロはぽかんと呆けたかと思うと、次の瞬間には盛大に声を上げて笑いだした。それも、「涙が出てるぞ」と腹を抱えてからかってくる始末。生理的な涙だこの野郎。


「お前も吸ってみればいい」


 手に避難させたしわくちゃのそれをクロロの口へと押し込む。笑いで浅い呼吸になっていたクロロは驚いた表情でひゅっと息を吸い込むと、やはり苦しそうにむせた。今度は俺が腹を抱えてケラケラと笑う番だった。


「ウッ……たしかにこれは……不味い……」
「涙が出てるぞ、クロロ?」
「アイヴィーも、っだろ……!」
「お互い、人のこと言えねーなあ」


 クロロは椅子の背もたれに、俺はそんなクロロのひざにぐったりと項垂うなだれながら、くすくすと声を合わせて笑う。時折咳き込む姿は、誰が見ても格好のついていないものに違いない。
 しばらくした後、「今度は大丈夫な気がする」なんて言って二人とも再度撃沈するのだから、大人になった時『あの頃は馬鹿だった』ときっと笑い合えるだろう。


◆ ◇ ◆



 何とかたっぷり時間をかけてたった一本の紙巻煙草を吸い、残った部分を暖炉の中に放る。散々俺たちを苦戦させた存在は、火の中で呆気なく灰へと姿を変えていった。
 それを見送った後、座っているクロロの両側頭部そくとうぶを掴み、上方から額と額を静かに合わせる。濡れた髪に触れる手は水気を帯び、背中まで伸びた俺の髪はクロロへとカーテンのように垂れ下がって光を遮った。
 暖炉の前にいたからか、ぶつかった互いの鼻先は熱く、もう幽霊のようには感じられない。目を閉じ、哀れな煙草の最期を思い出して脳裏に焼き付けていく。
 不思議そうに呼ばれた俺の名前は、熱く苦いクロロの吐く息の中で自分のものでないようだった。
 数秒の後、ふらりと離れてもとの距離をとる。次に目を開けた時、景色は色付き硝子がらす越しに見ているかのように鮮烈な赤が統一していた。


「――死体、消しにいこうか」


 口直しのホットミルクはすっかりと温度を無くし、その上苦い物の後なせいか、酷く甘ったるく感じた。

(P.33)



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