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「そろそろ休んだらどうかね」


 当初よりも幾分かは安定してきた取引の今日の分を済ませ、ちょうど子供一人が座れるくらいの大きさの廃材の上に腰掛けていると、目もとに一つ大きなシミのある中年の男が話し掛けてきた。
 どう見たって休憩している最中だ。
 彼は目が悪いのだろうかと、融けたろうのように垂れ下がった薄っぺらい皮で隠れてしまいそうになっているこげ茶色の瞳を見ていると、「そういう意味で言ったんじゃないさ」と彼は愉快そうに表情を和ませた。
 目が細められたことで、シミはキュッと頬の肉と目尻のしわで潰されて形を歪ませた。「頑張りすぎだよ」薄汚れた歯がかさついた唇の奥に覗く。


「お前さんの顔を初めて見た時はもう少し――よく見んとその髪で隠れてわからんがな、子供らしい丸さがあったもんだ。それが今はどうだ、顔色はすっかり燐火りんかにでも照らされたようだ。凱風がいふうにすら吹き飛ばされてしまうだろう」


 つまりはやつれたと言いたいのだろう。しかし、余所からこの地に来たのなら痩せるのは自然なことだ。


「もうあの取引は終いにするんだ」


 俺の肩に手を乗せつつ、読み聞かせをするような穏やかな声で男は言う。「このままだといつか身体が壊れてしまうよ」赤の他人にまで心配されるほど俺は寿命を縮めていたのだろうか。
 廃材から降りて「言われなくてももう手を引くよ」と言えば、肩に乗せられた手は離れていった。体力云々の問題じゃなく、頃合いを見計らった結果だ。潮時が来てからでは遅い。


「ここ最近のうちに取引した組の人にはもうこれきりでやめると言ってあるんだ」


 勝手に話を進めていたことを謝ったほうがいいだろうか。しかし始めたのは俺の勝手なのだ。
 男は最後に「それならいいんだ」とぽんぽんと俺の頭を叩くと、ゆっくりと立ち去っていった。
 浄水場を作るところまでは行けなかったが、防波堤と処理施設を作るだけの資金と人手は揃えることができ、少しずつだが建築が進んでいる。
 ある程度この街を知ることができたのだ、もうこの存在しない街にいる必要も無いかもしれない。


「……少しは綺麗になったかなあ」


 すっかり生臭さの消えた海を眺める。「へえ、君が前に居た所はそんなに綺麗だったんだ」不意に潮風に乗って聞こえた声は、先ほどの男とは違って若かった。


「そうだよ。海じゃなくて川だけど」


 言葉を返しながら声の方向へ顔を向けると一組の男女が廃棄物の上に立っていた。足もとが崩れてしまいそうだが、ここに住んで長いのだろう、重心は安定していて危なげが無い。
 女の子は何度か見たことがあった。というかこの前金髪の奴と配給所に来ていた、気の強そうな子だ。


「オレはクロロ。クロロ=ルシルフルっていうんだ」


 廃棄物から軽やかに降りると海を遮るように目の前に立ち、爽やかな笑顔で手を差し出してきた。握手しろということで間違いは無いだろうか。


「それは……よろしくしたいってことなの?」


 ルシルフルに尋ねると、彼は一瞬呆けて「握手を知らないのか?」と逆に尋ねてきた。俺が言いたいのはそういうことじゃない。


「握手をする文化が無いわけじゃないよ、普通にするさ。ただ」
「ただ?」
「よろしくして何があるんだってことが言いたいんだよ、ルシルフル」
「興味がある、それじゃ駄目かな」


 そして彼は近頃のことについてゆっくりと語りだした。食糧が何たらとか、生活必需品が何たらとか、正直もうやめることだしどうでもいい。最近少しいい暮らしできている感じがする、で済ませてくれればそれでいいのに。
 こいつ頭いいんだろうな。そんなことを思いながら、彼の頭に乗っかるように位置する太陽を見上げる。じり、と眼球が痛んですぐに視線を目の前の奴に戻した。太陽の煩い光を浴びても彼の黒い髪は光を一心に受けるだけで、この街では当たり前に等しい状態――痛んだことによる色素の抜け――は少しも見受けられない。パサついてはいるが、綺麗な黒色をしている。


「……聞いてた?」


「途中(うわ)の空っぽかったけど」とルシルフルは続ける。多分“ほかのことに気をとられていた”って意味で使っているのだろうが、実際に上の空だったな、と一人面白がってみてからすぐに思考を元に戻した。


「大体は。で、その事と関係あるって?」
「時期的にも合ってるだろう? それに、マチの勘はよく当たる」
「アタシは一言も関係がありそうなんて言ってないよ」
「だが、マチ自身気になっていたことではある、違うか? 直感だとしても、それだけで十分だ」


 女の子はマチという名前らしい。金髪の奴は彼女にシャルと呼ばれていた。
 どんな顔をしていたっけ、と目の前の二人のことは頭の片隅に追いやって考えだしたところで、「話を戻すけど」とルシルフルが会話をスッパリと切ってもう一度関係性の有無を尋ねてきて、追いやったばかりの思考をもう一度引っ張って連れ戻す。
 別に隠すことでもないため肯定を返した。ルシルフルはクイズに正解したかのように先ほどよりも少し声を弾ませ、具体的にどのようなことをしたのかと、好奇心のままに詰め寄ってきた。


「――念能力」
「……?」
「何でも無いよ、今のは忘れて」


 やっぱり知らないか。息を吐きつつ二人を見やる。二人の生命エネルギー、通称オーラと呼ばれる白いもやは、ほかの人同様いたずらに漏れて空気中に溶け込んでいくばかりだ。
 少し勉強しただけで詳しくもない俺が説明するのには骨が折れそうだが、教えなかったら教えなかったでしつこく訊いてくるに違いない。
 少し辟易へきえきしながら、説明を始めんと重たい口を開いた。

(P.28)



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