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「よく泣かずにこらえたな」とうつ伏せの俺の首に手慣れた様子で包帯を巻いていく彼に、無言のまま頷く。施術直後、「ほかの奴らよりも上手く入んねぇな」と不思議そうにしていた彼を見て、もしかしたら、と試しに体の周りにまとわせていたもやをほとんどすべて押し込めてみると一転、彼は「今までのどんな奴らよりもいい肌だ」と興奮しながら施術を行ったのだった。
 もやは体を守る役割を持っていたらしい。押し込める動作にはある程度の慣れはあったが数時間持続させることはかなりの体力を奪った上に、彼が選んだ場所は首の裏だった。「かなり痛い場所だけどここに入れてぇんだよな」らしい。
 その言葉通り施術には叫んでしまいたくなるほどの痛みがあったが、もやを押し込めた途端その痛みはさらに数倍にも増して、心が喰い破られてしまいそうな忘れがたい激痛を生み出した。
「正直何度も泣いてやろうかと思った」なんてベッドにうつ伏せになったまま、ぼそぼそと口先だけで喋る。俺自身何を言ったのか上手く聞き取れないほどだらしがない声は当然彼も聞き取れなかったらしく、施術道具の片づけをしながら聞き返してきた。しかし返答する気力も無い。
 一日が経つ頃、彼にシャワールームへと連れて行かれた。皮膚から剥がしやすいようにぬるま湯を当てられながら包帯が慎重に外されていく。ホテルの大きな鏡に映る大人と子供は不釣り合い以外の言葉が見つからなかった。


「……どういうこと?」


 ヘアクリップで留められた髪の下、うなじには刺青しせいどころか傷一つ見当たらない。あれだけの激痛があったのは確かなのだから、何も無いということはあり得ないというのに。
 おそらく間抜けな顔でもしていたのだと思う。俺がそう訊くなり、シャワールームに満足そうな笑い声が響いた。そして一言、「熱い湯でも出してそのままシャワー浴びてこい」だそうだ。そう言うや否や彼はシャワールームから揚々と出ていった。


「……何だってんだよ」


 ヘアクリップを乱暴に取ると肩甲骨けんこうこつあたりまで伸びた髪がふわりと広がる。どうやら髪質自体は妹と違って母親に似たらしい。緩い癖のついた髪は湯を被ってすぐに重たい直毛へと姿を変えた。三十八度に設定されていた湯の温度を彼の言葉通りに数度上げて髪を洗う。
 狭くはないが広いとも言えないシャワールームはすぐに肺を押し潰さんとする濃い湯気に満たされて、鏡には曇りを、俺には息苦しさを与えてきた。


◆ ◇ ◆



 くらりとする頭で息苦しさを整えつつ、床に水溜まりを形成しながら髪を拭き始めた時、「おーい」と脱衣所にまで響く声で彼が叫んだ。「なーに」と言葉を返すと、「こっち来てみろ」と雑な呼び出しがかかる。まだ濡れていることを伝えても「早くしろ」の一点張りで、仕方なしにコンタクトを入れ、備え付けのバスローブを着て脱衣所を出る。
 

「その顔はシャワーでもよく温まれたみたいだな? 厚化粧の女みたいに真っ赤な頬してんぜ」
「……そう言うなら体を拭くぐらいゆっくりさせてよ」


 ウイスキーの瓶を片手にベッドにだらしなく体勢を崩していた彼がへらりと笑う。その頬は人のことを言えるようなものではなかった。どうやら酒を飲むとすぐに顔に出てしまうらしい。「そこに立ってみろ」と彼に顎で指された先はドレッサーの前で、大人しく鏡の前で自分と向き合う。


「脱げ」
「……酔ってんの?」
「まだ飛んじゃいねーぞ! その腰紐は外さなくていいから上だけ邪魔なもん取っ払ってくれ」
「……わかったよ」


 バスローブの合わせ目から両腕を抜いて、上半身の布を取り払う。束ねてもいなければ、ろくに拭いてもいない髪の毛がぺっとりと背中に貼り付き、背中の筋を通った水滴が下半身へと流れていく。濡れた肌は空調のよく効いた室内では敏感に風の流れを感じるものの、火照ほてった体が冷めるのはまだ少し時間がかかりそうだった。
 大きな窓から見える都会の夜景は壮大で美しいが、この部屋の薄暗い橙色のランプでは俺たちが夜景に貢献することはなさそうだ。隣のビルからここに目を向ければ見えてしまいそうなのは彼の気にするところではないのだろう。
 陰翳いんえい礼讃らいさんしているかのような部屋で、頼りないあかりに浮かぶのは高濃度酒を飲む大きな入れ墨の男と半裸の痩せぎすな少年――とあってはアンダーグラウンドを垣間見たなんて思われてしまいそうだ。


「おお、おお、見事に咲いてんぜ?」


 ベッドから下りた彼が俺の後ろに立って髪を持ち上げる。直後何かをなぞるように太い指がうなじの上で這わされて小さな身震いを起こした。初めて手を繋いだ時に体温が高いと感じていた手は、風呂上がりの熱い体ではひやりと冷たい。


「スティ、グマ……?」
「お?」
「指が、何か……その、く、くすぐったい……んだけど」


 口にすると羞恥が煽られた。鏡越しに彼と視線を合わせる。何かに夢中になっていた彼は我に返ったらしい。「悪ィ」とパッと手を離されて、持ち上げられていた髪が肌を優しく叩いた。


「えーと……お前も見てみるといい、首の後ろ」


 とんとん、と自身のうなじを指でノックする彼を見て、鏡で見られるように体ごと横を向いてから髪を持ち上げる。貧相な首筋や脇に空調の冷風の心地好さを感じながら薄明かりに目を凝らすと、先ほどまでは影も形も見せなかったはずのそれに大きく目を見開いた。


「な……」


 てのひらほどはありそうな胴体を持った生物が首筋に住み着いている。俺が綺麗だと思った、ほかの刺青しせいよりもはるかに真っ黒なあの墨一色。肥えた蜘蛛が本来よりもいささか多い手足を首に回していた。鋭い足は細く頼りないはずなのにまるで首を絞めているかのようで、命を握られているような、あるいは俺の命ではなくなったような感覚に襲われた。


「一体俺の体で何したんだ」
「酷ぇ言い草だな? 遊んでいいっつったのはそっちだぜ?」
「……たしかに聞こえが悪かったかもしれない。責めてるわけじゃないから教えてくれる?」


 刺青しせいを眺めたまま問う。首を傾げても当然引っ付いた蜘蛛が離れるわけもなく、それはただ静かに、影のように沈黙を保ったまま優雅に手足を伸ばしている。


「“白粉おしろい彫り”って知ってるか?」
「運動後とか風呂上がりとかの血の巡りが良くなった時にのみ現れる入れ墨……だろ?」
「その通りだ」


 彼は「お前よく知ってんなぁ」と感嘆の表情を浮かべた。白粉おしろい彫り自体は何度か本で見たことがあった。


「でもそれって実在なんてしない都市伝説みたいな、創作上のものだろ? 普段は傷一つない体がそんな都合よく……。それに、血の巡りが良くなった時にしか現れないのだとしたら、考えられるのは肌と同色のインクを刺して、肌が赤くなることで白く浮き出ているように見える、とかじゃないのか? こんな真っ黒の――」
「オイオイ、見たこともねえのに実在しないなんて決めるのは馬鹿のすることだぜ? 『白粉おしろい彫りは実在しません。またはただのフェイクです』っつーつまんねぇ文字と、テメェの首の後ろのソレ……」


「どっちを信じんだ?」なんて、一つの答えしか求めていないというような声を出した彼の太い指が再び蜘蛛の上に乗った。


「……わかったよ。俺の負けだ。素晴らしいものを与えてくれて嬉しいよスティグマ。まさか俺にとって一番の財産がこの体になるなんて思わなかったな」


 最後に「自分じゃよく見えないことが難点だけど」と茶化せば、彼は豪快に笑ってベッドへと戻り、酒をあおった。バスローブを着直して、今度こそタオルで髪を拭く。


「……何で蜘蛛を彫ったのか訊いても?」
「もちろん。――蜘蛛っつーのはいろいろな象徴をその体に背負ってる」
「『知恵』や『希望』、反対に『狂気』『悪意』『絶望』……。ああ、『グレートマザー』――『母親への恐怖』とかもあったかな」


 心の中は汚いくせに、何でもないような落ち着いた声が口からするりと出ていく。鏡の中の自分は穿うがつような目をしていた。コンタクトを着けていない左目がタオルの影の中で煌々と光る。
「さあ、そこまでは知らん」と投げ出すような声を彼は出した。酒を嚥下えんげする音が静かな室内に響く。


「アー、オレにこう言われても説得力なんて欠片もねえと思うけどよ、知恵っつーのは大事なもんだ。今もそうだが、この短い間お前を見てて純粋にスゲーと思ってるんだぜ。お前、相当勉強してきただろ。いや、勉強っつーのも違う気がするが、とにかく知識を喰い漁ったのは少し付き合っただけで十分に伝わってきた。ま、元から出来のいい頭はしてたんだとは思うけどな。それで、『知恵』を入れたくなった」
「……ありが、と」
「で、オレにとって出会った時のお前は希望そのものだったんだよ。まー、汚ぇ欲にまみれてることは否定しねえが。何にせよ、希望であることに変わりはない。それが、『希望』の理由だ」


 褒められているようで少しむず痒い。希望なんて、あの頃はまるで縁の無かった言葉だ。こんなに簡単に人に与えていい言葉であるはずもないのに、この男は。


「『狂気』『悪意』『絶望』ってのは……何でだろうな。お前に彫っている時も考えちゃいたが、ずっとわからなかった。実際に今言ったことは心の底から思ってるが、正直な話、お前に彫ると決めた時真っ先に思い浮かんだのがその蜘蛛ムシだったってだけの話だ。刺青しせいで蜘蛛なんて言ったら少しも珍しくねえモチーフだし、だからこそ彫る側としてその意味はある程度知ってはいる。もちろん、それらの悪い意味をはらんでるってこともな。だけどなぜかそれが……その……」
「いいよ。教えてほしい」
「……人に言うことじゃねえってのはわかってるんだが、それがお前に似合うって思った」


「へえ……」と淡泊な声が出てくる。彼はそれに呆れたようだったが、声の調子と俺の感情自体が上手く噛み合っていないことに慣れ出しているのか、簡単に小突く程度で終わった。興味が無いならわざわざ教えてほしいなど言わない。


「……スティグマの」
「ん?」
「スティグマのよく利く鼻を信じるなら、俺は本当に蜘蛛みたいな、そんな人間になるのかもしれない。知恵の上に立ち、希望を振りかざしながらも内々に狂気を潜ませ、悪意を飼い、絶望を与える人間に。グレートマザーってのも素敵な皮肉だ」


 すっかり落ち着いた目の色を確認して、被っていたタオルを取り去る。彼の横に腰掛けるとスプリングのきしむ音が鳴った。「……オレはそこまで言ってないぞ」酒に焼かれた低い声が落ちてきた。


「グレートマザー……大いなる母ってのは子供を慈しみ育てる一方でたしかに『母親への恐怖』なんて意味まで持つけどよ、それの支配を乗り越えてこその成長っつーもんだろ? 蜘蛛が象徴するものの一つに『成長と死』なんてものがある。お前が母親をどう思っているのかは知らねぇが、良く思ってんならグレートマザーはいい意味で受け止めて感謝しつつ成長していけばいい。良くは思えねぇんならその支配に打ち勝って成長していけばいい」
「荷が重い……」
「うっせ」


 けっ、と苦いものを吐き出す真似をするように口を曲げた彼の横で、今彼から出た蜘蛛の象徴の一つを復唱する。『死と成長』ならグレートマザーの死を以って俺自身の成長があるように受け取れるが、『成長と死』とあっては、死が俺自身のことであるようにも受け取れるようになる。俺の成長を以ってグレートマザーの死が訪れる、という意味にも感じるが。


「ねえ、死の方は?」
「まだ子供だろ? んなこと気にすんなよ」
「墨入れてもらう前にも言ってただろ、『後悔するまで生きているかわからない』って」
「……お前が言うと冗談に聞こえねえんだよなぁ」


 ぐりぐりと、ウイスキーボトルの底が頬に押し付けられる。静寂が腰を据えようとしているのを甘受し、ボトルを退けて立ち上がった。涼風は気持ちがいいが、体が冷えてしまう前に服を着てしまおうと、腰紐を解きながら脱衣所に戻る。蜘蛛はすっかり消え失せて、何も無い生白い肌だけが鏡に映っていた。
 蜘蛛とはよく女性的なものとして例えられるが、おそらく俺の名前自体が女性形なのを丁度いいとでも思ったのかもしれない。


「……アイヴィー、知ってっか? 自らの尾を飲み込む蛇ウロボロスほど有名じゃないが、蜘蛛にだって『死と再生』なんて意味があんだ」


 寝間着代わりにワイシャツをワンピースのようにまとってもう一度彼の横に座る。立つとももの中央より下まであるそれも、座ると生地が突っ張って短くなってしまう。とはいえこの男の前ではわざわざ気にするようなことでもないだろう。


「死と……再生?」
「人間死んだら終いだ」
「……それくらいわかってるけど」
「だけどよ、タトゥーにくらいはそんな意味を込めてやったっていいだろ。自分が気に入ったもんは長く良く在って欲しい。エゴだと言われようがそれが人間ってやつだ。だから、お前は死なんて今は気にすんな。再生が待ってるとオレが信じてやるから、今を精一杯楽しんでろ」


 酷い押し付けだ、と心の中で唾を吐く。
 死を考えるな、など一体誰がそんなことできるのだろうか。生きていれば死とは必ず迎えなくてはいけないものであって、つらい時であろうと、楽しい時であろうと機会をうかがってくるそれと向き合うことは放棄していいものではない。例え、死を喜ばしいものとしていても、悲しいものとしていても、興味が無かったとしてもだ。
「信じてやる」だなんて、なんて無責任な言葉なのか。信じてもらうことで何が変わるわけでもない。信じた側が最期一方的に傷つくだけで、誰も何も得しない。ましてや、まるで俺が信じてもらうことを喜ぶような言い方だって一方通行だ。すべてが気に食わない。
 しかし実際に俺の体がとったのは恥じらいを覚えた乙女のように布団に潜り込むことだけで、それらが言葉になることも、表情が苦くなることもついぞ無かった。

(P.19)



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