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 火花のぜる音は幼児の拍手のようだ。
 顔に熱風を浴びながら人知れず安堵あんど微笑わらう。
 屋敷内が騒がしくなったのを見計らって火吹く別館へと急ぐメガネたちと合流を果たした時には炎は天まで昇る勢いだった。
 躊躇ちゅうちょもせずにそのまま中へ転がり込む一行には面食らったが、早いところアヤネを助け出さなくてはならない。
 ゲンザブロウが寝ていた部屋のドアはコゴロウとキョウスケによって破られたが事情を知らずともそこが火元であることは一目瞭然で、ドアが開けられたことによって新しい酸素を得た室内の炎はゲンザブロウが助からないことを嘲笑っているように見えた。
 チョウイチロウまでが病気の体に鞭打って乗り込んできたのは、俺がキョウスケにアヤネが二階にいることを耳打ちしたのと同時だった。


「あ、絢音がまだ中に……」
「ええ!? おばあ様が!?」


 チョウイチロウによると、オーディオルームで亡き息子の演奏が録音されたテープを聴きながらアヤネは寝入ってしまったらしい。火元から遠かったことが幸いしたのか、気配の限りでは彼女は無事だ。


「伯母さんがいることを知っていて言わなかったのかい?」
「こんな時まで俺と話したがってくれるなんて、友だちになり甲斐があんなあ」


 うやうやしく礼をすれば、無駄話をしている暇がないことに気づいたキョウスケがどこかへ駆け出す。すぐ帰ってきたその手にはバケツが握られていて、それを自身の頭上で引っくり返すなり三階への階段を上っていった。


「おっと、お前は駄目だぞ」


 キョウスケの後に続こうとした小さな体躯たいくを掴んで引き戻す。
 魚のように暴れられる気力が残っているのは良いことだが、こいつは自身の体の訴えにまだ気づけていないだけだ。
 コート越しに左腕の上に座らせる体勢をとらせて、右手でメガネの顔を俺の肩に寄せる。暴れるだけ体力の無駄であることを悟ったのか、メガネは借りてきた猫よりも利口な姿を見せた。


「苦しいんだけど……」
「煙を吸うよりマシだな」
 

 不完全燃焼によって一酸化炭素という化合物が発生する。
 呼吸によって取り込まれた酸素はヘモグロビンと結合することによって全身に運ばれるが、厄介なことに一酸化炭素は酸素よりも約250倍ヘモグロビンと結合しやすい性質を持つ。
 つまり椅子取りゲームに敗北した酸素はヘモグロビンに運搬してもらうことができずに体が低酸素状態を引き起こすのだ。
 火事での主な死因が焼死ではなく一酸化炭素を含んだ煙による中毒死なのはそういった理由だ。
 一酸化炭素中毒の初期症状として頭痛や眩暈めまい、吐き気などが挙げられるが、一酸化炭素が急速に蔓延する火事場では異変に気づく前に昏睡することもある。
 また、一酸化炭素中毒はしばしば後遺症を引き起こすから一秒でも惜しいのが現実だ。もしものことがあれば気圧を上げて酸素で満たしたカプセルに放り込みでもするが――通常、結合可能な酸素量には限りがあるが高気圧下では血管内の気体が縮小することによって溶解するためより多く酸素を得られる――、それでも後遺症のリスクを完全に払拭できるわけではない。
 悪食消しゴムハングリーイレイサーで一酸化炭素を処理してしまえたら楽かもしれないが、それによって別の不都合を引き起こしてしまったらそれこそ対処に苦労するだろう。
 一酸化炭素はその毒性ばかりが目に止まるが、日常においては細胞内の情報伝達であったり、免疫抑制作用、抗炎症作用などとしても働くらしい。
 要は知識と経験不足だ。何が起こるのかを予測し、そしてそれを対処できるならさっさと処理して高みの見物でも決め込めていただろうに。
 残念ながらこればかりは今どれだけ頭を悩ませても思考力でなんとかなる話ではない。
 まあ空気中の水分量を間引くような手軽なものではない上、神経をすり減らして器用にできたとしてもこれだけ燃えていればキリがないから結局はこうなっていたかもしれないが。
 ここでガスマスクを出せば聴取が長引きそうだしなあ。


「そのまま口閉じてろよ、飛び降りるぞ」


 最寄りの窓へと向かって身を乗り出す。
 呆けた声を出したメガネをよそにそのまま飛び降りると、炎を背中にしたはずの世界が明るすぎて目を細めた。

(P.48)


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