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side:Chouichirou Shitara


 コンコンコンと無機質なノック音が冷えた室内に三度響いた。
 心身共に酷く疲れている。最後の誕生日かもしれないというのに厄介事がありすぎた。憔悴しょうすいしているせいか空気の抜けるような咳が止まらない。
 あやつが警察の車に乗って連れていかれた今も心臓が早鐘はやがねいていた。


「アイヴィーです。今よろしいですか?」


 そんな荒だった波を落ち着かせるように、柔らかい絹のような声が扉の向こうから聞こえた。無機質なノック音とは正反対の、温かい人の声。
 先ほどから無意識に指でいじっていたことに気づいた四つ葉のクローバーを枕もとに置いて青年に入室を許した。


「お休みのところ申し訳ありません」
「よい。なに、疲れておるのにどうにも眠れなくて困っていたところじゃ」


 眉尻を下げる青年にそう声を掛ければ、「それならちょうど良かった」と彼は安心したように息をついた。
 立ち振る舞いは至極丁寧で、物腰柔らか。たとえ万人受けしそうな微笑みの裏に隠れているものがあったとしても、せいぜい好意的に思われたいという誰にでも持ちうる感情ぐらいなものだろう。
 蟻一匹でさえ殺せそうにないどころか悪意を向けられても気づきそうもない青年に、出会って一日と経っていなくても好印象を抱いているのは明白だった。


「四つ葉は気に入っていただけましたか」
「ああ、もちろんじゃ! 馬鹿のせいでめちゃくちゃな日にされてしまったがな、ワシまで連れていかれなかったのはこれのおかげだと思うておるわい。後日また話を聞かせろと押し掛けてくるかもしれんが――うむ、なんとかなるじゃろう。証拠なぞない」


 ストラディバリウスは誰にも渡すものか。
 保管室にしまってあるだろう銘器を想い、肺から笑いを溢した。


「何の植物かご存知ですか」


 いつのまにか距離を詰めていた青年の体が四つ葉をかげらせる。


「シロツメクサ……違うかの?」


 ワシが答えたそれに青年は満足するように微笑むと、わけのわからない横文字を形のいい唇からスラスラと流していく。すると彼はいつのまにか上製本を左手に、ペンを右手に持って立っていた。もとよりそれらを持っていたとでも言うように。
 青い目は本へに落とされたまま、こちらを見ることはない。熱心に何かを書きつけていて、あれは本ではなく手帖てちょうだったのだとワシが結論づけた頃にはシロツメクサの大きな花束が青年の腕に抱えられていた。
 感嘆で心臓が喉もとまで浮き上がる。
 一つ一つは地味な花だというのに、何十何百と集まるとかくも素晴らしいものだったとは!
 白い花、青々とした葉、そしてそれらを際立たせる肌触りの良さそうな黒い包み布、金糸で織られたリボン――いたずらに咲く野花とは思えない。
 洗練された花束に魅入っていると、それは眼前を埋め尽くすように差し出された。
 不可思議な現象に加え青年のゆるりとした優雅な動きも相まって、どこか住む世界の違うような感覚に襲われる。


「――『復讐』、そして『約束』」


 柔らかかった空気に、突如不穏な単語が落とされた。
 相変わらず温めた砂糖水のように柔和な表情をしているものだから、聞き間違いではないかと耳を疑う。
 青年は「ああ、やはりご存じなかったようで」とからころ笑って、ワシの視界の多くを占めていたシロツメクサの花束をわずかに下にずらして胸もとへと落ち着かせた。
 蜂蜜があふれそうな匙を逆さまにしたようにとろりと目を細める様があんまりにも完成されていて、だからすぐに気づけなかったのかもしれない。


「花言葉さ、シロツメクサのな」


 胸にひんやりとした氷柱つららと、直後にかつてない違和感を覚えて視線を落とす。「誕生日おめでとう、チョウイチロウ!」上から降ってくる明朗な声は耳に馴染むことなく何度も反響した。


「ぁ、あ、ううう……」


 いつのまにか胸に深く押し付けられていた無数の白は恵みの水とでもいうように急速に赤を吸い上げて、もう無垢なシロツメクサとはまるっきり別の禍々しいものに見えた。アカツメクサよりももっと濃い、別の何かだ。


「な、にを……」


 言いかけて、急激にせり上がってきた液体を花の上に吐き出す。もうどこにも白はない。
 むせ返るほどの金属臭を放ちながらポタリポタリと赤を滴らせるそれはさながら小さな薔薇のようでもあり、彼岸の花のようにも思えた。


「――音階は完成させたぞ、キョウスケ」


 先ほどまではあれほど柔らかかった声色が、ここには愛すべき者はいないとでも言うように今や機械のように実に淡々としている。
 ぞっとした、と言うと軽く聞こえてしまうやもしれない。まるでその長い指で心臓の隅までざらりと撫でられたような底の見えない恐怖が全身を絡めとっていく。
 響輔の奴め、こんな悪魔と契りを結んでいたなんて!


「あやつからいくら貰った? ワシならストラディバリウスをやれるぞ。売れば数億にもなるであろう、ストラディバリウスを……!」


 穴が開いているのは心臓か、それとも患った肺か。余命半年といえど、ワシはまだ死にたくない。


「どれだけ素晴らしい品でも、団長が欲しがらなければ盗る価値もない」


 それならば何故殺すのだと訊こうとしても、もう空気がヒイヒイ漏れるだけで音にはならなかった。
 ギチギチと、悪魔はあろうことか刺さった物を胸中でゆっくりと一回転させて、それから鳥肌が立つ感覚を教えるようにゆっくりと胸から花束を引いた。
 一瞬、銀色の光が目に飛び込む。やはり中にナイフを仕込んでいたらしい。
 全身の倦怠感。初めの冷たさはどこへやら、今は焦がされている。尋ねる気力どころか、起き上がっている気力まで血と流れ出ていったようだった。


「言っただろ? 鮮やかに飾ってやるってさ」


 輪郭を失っていく視界で最後に見た男はもうこちらに目もくれていなかった。

(P.54)


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