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 眠い。
 上演開始から一時間ほど経ち、オペラも第二幕に入った。舞台上に異常は見当たらず、主演のアイリーンは優雅に歌っている。
 そもそも何で俺は観客席にいるんだ。「観客席に一人は配置したほうがいいと思うんだけど、アイヴィーさんなら単独でも大丈夫そうだよね」なんて言ったメガネのせいか、そうか、そうだった。
 おかげでジャック・ザ・リッパーとの戦いの前に睡魔と戦わなければならなくなってしまったじゃないか。


「美しく死ぬのだぞ、アイリーン・アドラー……」


 隣から聞こえてきた怪しい笑い声を眠いがための幻聴と思いたい。だが今ので眠気は吹き飛んでいってしまった。
 モリアーティ、アンタ何で来てんだ。家で大人しくワインでも飲んでてくれよ。


「やっぱ俺らに協力するって口実で実際はホームズを苦しめたいだけなんですよね」


 ため息をつかずにはやってられない。ようやく俺に気づいたモリアーティは再び怪しく笑った。


「こんなときにオペラ鑑賞か? 呑気なものだな」
「あー、俺ハブられたんですよ。悲しくて泣いてたとこです」
「その涙はあくびだろう」
「睡魔との激闘、バレてましたか」


 浮かんだ涙を親指で拭い、背筋を正してアイリーンを見下ろす。


「にしても、なんてタイミングのいい公演なんでしょうね」


 この『トスカ』というオペラはアイリーン・アドラー演じる主人公のフローリア・トスカとその恋人カヴァラドッシの話だ。
 王政のもとで恐怖政治が行われていた時代、共和主義のカヴァラドッシは捕らえられ、警視総監スカルピアによって銃殺刑が決まる。
 しかしスカルピアはトスカと取引を行う。トスカがスカルピアに体を捧げる代わりにカヴァラドッシの処刑を空砲で行うというものだ。
 しかし寸前でトスカはスカルピアを刺し殺しカヴァラドッシのもとへ駆けつけるが、約束を違えていたのはトスカだけではなかった。
 カヴァラドッシの死を受けトスカは城壁から身を投げて命を絶った。


「アイリーンを恋人のために自死を選んだトスカと見るか、ホームズを恋人を失って苦しむトスカと見るか、あなたはどちらです?」
「……ほう、なかなか教養がある」
「あ、老眼キツいか? 俺だってアンタの教え子と同じ元浮浪児ですよ」


 アイテテ。杖でひざを打たれてしまった。
 これで怪我してゲームオーバーだったら間抜けすぎる。これからはもう少し発言に気をつけよう。
 ひっそりと自戒していると轟音とともに会場が大きく揺れた。この衝撃と火薬の匂い――爆弾か。だがこの威力、爆殺ではない。
 一呼吸。殺害方法の特定のために広く劇場を見渡す。
 舞台照明がぐらりと揺れたのが合図になった。
 俺のひざを打った硬い杖を手にボックス席から飛び出して、地上席の正装した紳士淑女たちの間に降り立つ。返せと老眼野郎からの声が上から降ってくるが無視して別の紳士からも銀の懐中時計をぶちりと乱雑に頂戴した。
 落ち込んでいるように見えたメガネから言われた頼みはただ一つ、「アイリーン・アドラーを犠牲者にしないで」だ。
 まったく、無茶を言ってくれる。俺は全知全能の神じゃないんだぞ。
 トスカは信心深く祈っていた神にすら裏切られたというのに、神に喧嘩を売って生きる俺に何ができると思っているのか。


「――まあ、ホームランくらいだよなあ!」


 宙に放った銀色をグリップの先端で思い切り叩き打つ。
 モランの首を落とせなかった疼きを発散するには力不足な品々だったが、何よりも硬い音がしてそれは愛に生きる女の頭上まで迫っていた舞台照明を撃ち砕いた。


「おーい、返そうかー?」


 シュウが扱えないこのデータの体では杖を強化できずに木っ端微塵にしてしまった。
 とはいえ一応借り物だ。杖を掲げ、ボックス席のモリアーティへと叫ぶと眉を吊り上げて「いらんわ」と冷たく返されてしまった。
 だよな! 俺もいらねぇ。
 至るところで爆発の連鎖が続きパニック状態にある劇場の中心で、こらえることなく自分勝手に笑い声を上げる。
 笑い終わる頃にはモリアーティの気配もアイリーンの気配もすっかり薄れていた。子供たちが裏口から逃がしたのだろう。
 ただ、何度確かめても数が合わない。アイリーンを逃がす仮定でまた数名脱落したのだろうと、舞台上の瓦礫を踏みつけながら血液の一滴も落ちていない舞台裏を進んだ。
 明るく照らされた舞台上とは違って薄暗いその場所で、イソギンチャクの間を縫う熱帯魚のように大道具の間に身を滑り込ませていく。
 しかし少し先のほうでメガネの焦ったような声が聞こえ、近くの木材の陰へと身を隠した。


「駄目よ工藤君、諦めちゃ……。お助けキャラがいないなら、私たちにとってのホームズはあなた。あなたにはそれだけの力がある。ホームズに解けない事件はないんでしょ?」


 ――クドウ?
 先まではエドガワ君と呼んでいたはずだ。そういや小説家らしいあの男、クドウユウサクと名乗っていたか。ペンネームの可能性はもちろんあるが、この一致は偶然で済ませていいものか……。
 二人にしか知り得ない何かが存在しているのは確かで、それはメガネたちにとって致命的なものである可能性すらある。
 一端を知ってしまったこの偶然を喜ばしいものとは思えない。秘密を知るということは、面倒事を受け入れるということだ。
 消えてしまったアイちゃんをメガネは最期の瞬間まで見届け、出口へと走り出した。
 残るは四人。片手で足る人数にまで減ってしまった。
 しかし脱落の瞬間を見るのはこれが初めてだ。意図せず遺言を聞いてしまった人間として最大限尊重はしようと思う。もちろんクリアの妨げになるようなら問答無用で切り捨てるが。
 ……ま、その心配はないな。
 一定の距離を保ちながらジャック・ザ・リッパーを見つけたらしいメガネの後を追う。その背中に迷いの糸は絡まっていなかった。


「やっべ……」


 どうやらだらだらと走りすぎたらしい。メガネたちが走って入っていった建物に行くとそこには何もなかった。ノアズアークまで俺をハブる気か。


「君、乗り損ねたのかい? 残念だけど今のが最終列車だよ」


 ったく……せっかくホームランを決めたってのにゆっくり走らせてもくれねぇのか?
 もっと労ってくれよ、という文句は喉までに留めて線路に飛び降りた。


「き、君! 何をする気だい!?」
「そりゃあもちろん」


 列車を追いかけるに決まってんだろ?
 発車したばかりの今ならまだ最高速度には程遠いだろう。少し走ればすぐに追いつくはずだ。止める駅員をよそに走り出せば、ジャケットが風を強く切った。

(P.24)


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