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side:Conan Edogawa


「らーん!」
園子そのこ!」


 会場の一角で元太げんた光彦みつひこ歩美あゆみ灰原はいばららん、おっちゃんといる時、手を振った園子が駆け寄ってきた。流石さすがは財閥のご令嬢、派手なドレスに身を包んでいる。


「イタッ」
「わっ……やべっ」


 園子は蘭に手を振りながら、これだけの招待客がいてもなお狭さを感じないこの会場を堂々と歩いてこちらに向かってきていると、何も無い所で何かにぶつかったように急に後ろに倒れた。何も無い所で何かにぶつかったように――そうは言ったものの、オレは確かに男の声を聞いた。
 驚いたような言葉の割に声色は随分と落ち着いている。否、もしかしたらその声質のせいでそう聞こえたのかもしれない。一瞬だけだったが、いさかいをなだめる時のような柔らかい声はオレにそう思わせた。
 尻餅をついてしまった園子から視線を外して、その場所をもう一度見る。すると先まではいなかったはずの男が立っていた。その瞬間、ドクリと嫌な音で心臓が大きく脈打つ。
 こんなに近くに立っていたのにオレらは全く気がつかなかったのか……? 一体いつから居た?


「いったた……もう、どこ見てん」
「悪い。怪我はないか?」


 やはり園子がぶつかったのはこの男らしい。先ほど聞いたものと全く同じ静かな声が男から発せられた。オレからは背中しか見えず、黒い背広を着ているということしかわからない。凝ったシルエットになっているわけでもないそのスーツは、この金持ちばかりが集まった華やかなパーティーでは後ろ姿だけでも違和を感じさせた。
 しかし前方不注意だった園子の非が大きいだろうに、あっさりと謝って園子に左手を差し出す姿は声の印象を少したりとも覆さない。


「……ッ」


 思わず目を見開く。園子に手を差し出しつつもさりげなく背中、つまりはオレたち側に回された右手にはべっとりと新しい血液が付着していた。革の色が黒であるせいで判別が難しいものの、あれは確実に血だ。てらてらと不気味に光っているものは脂だろう。
 隣にいる灰原にちらりと視線を向けると、灰原も気づいているらしく冷や汗の伝う顔で小さく頷いた。しかしすぐに何かに気づいたようで、慎重にしゃがみこんだ。
 灰原が拾い上げたのは「……本?」思わず口に出してしまい、シッときつい顔で黙れのポーズをとられる。……ワリーワリー。
 男が気づいていないのをいいことに開くと、中にあったのは印刷された物語ではなく罫線だった。どうやらノートらしい。とは言っても、厚紙であることや縦横のサイズ、表紙などから見てもまるでノートには見えない。
 白紙でないページまで辿り着くとまるで謎解きでもしているかのようにそこには黒洋墨インクでびっしりと暗号のような文字が書かれており、その上にはどれも二重線が引かれていた。単語と思われる文字同士の間には少しのスペースが空けられてはいるものの綺麗に詰められていて、几帳面な性格だということがうかがえる。
 しかし所々に飛び散って付着したらしい血が茶色く変色していたりそれで紙がくっついてしまっているものだから、その几帳面さでもけきれないほど日常的に血生臭い環境にいるのか、それともこだわるポイントがズレているのか――
 次のページをめくると黒い文字で何かが一つ書かれているだけだった。
 本当に何語だよ、これ……。見たことねーぞこんなん。
 解読しようと記憶の棚を片っ端から開けてみるものの、該当するものは一つとして存在しない。「ねえ、早く返しちゃったほうがいいんじゃないの」灰原にかされて十秒にも満たないうちに本を閉じる。


「はい、これお兄さんのだよね?」


 声を掛けるとすぐに男は足もとのオレらに気づいてこちらを向いた。
 あれだけ本にも血が付いていたりしたら子供とはいえ見られたかもしれないと焦るのが普通だろうに、オレが両手で差し出したそれを奪い取るわけでもなく、頭をくしゃりと左手で優しく撫でてから受け取った。


「ありがとな」


 もしかしたらあれには機密事項が書かれていて、そのために暗号を使っていたのかもしれない。写真に収めておけばよかったと後悔しつつも見てしまったことを悟られてはいけないと、子供らしい笑顔を作った。すると男も開花を迎えた植物のように笑う。否、微笑む、と言うほうが相応ふさわしい柔和さを持っていた。
 無邪気という言葉は溌剌はつらつとした真っ直ぐな子供を表す言葉としてよく使われるが、文字通り『邪気が無い』ものも指すのだと今更ながらに知る。


「……灰原」
「おおよその言いたいことはわかるわ。あの血と脂の量はちょっとやそっとで付くものじゃない」
「それに、オメーもあの男がこっちを向いた時に気づいただろ? アイツの服……黒尽くめだ」


 今まで男は後ろを向いていたために気がつかなかったが、本を手渡す際に男がこちらを向いた時、悪寒と呼ぶには余りにも得体の知れないものがゾワリと背中を撫ぜた。
 黒いスーツを身にまとった男はネクタイをつけておらずゆったりと第二ボタンまで開けているせいか、スーツなのにどこかだらしがない印象がある。
 ここはコクーンの開発記念パーティー、つまりは祝いの席であるのにもかかわらず男の服装は背広に始まり、ワイシャツも、靴も、手袋も、頭に被った帽子までもが黒で統一されており、このきらびやかな空間で一人浮いている。黒かったのはジャケットだけではなかったのだ。
 ――そして、黒尽くめの服といえば。
 当然考えが行きつく先は、オレの体を小さくしたあの組織。この男も組織の一員なのではないかと冷や汗が伝う。いや、相手が全身を黒色の服でコーディネートしているだけで判断するのはどうなんだ。
 しかし頭を撫でられた時に感じた、香水に混じったわずかな鉄の匂い――手袋に付着したものは血で間違いなかったのだと嫌々ながらに脳が再認識した。


「あなたの名前、教え」
「あっ、園子さん! まさかそのバッジ……」


 手を差し伸べられたというだけでいつもの如く目をハートにしている園子が男に名前を訊こうとした時、光彦が園子の左胸に輝くバッジに気がついた。「……ああ、これ?」園子は言葉を遮られてムッとしながらも、光彦のそれに答える。


「ひょっとして園子も?」
「鈴木財閥がゲーム開発に資金援助した関係でね」


 流石さすがだな、日本有数の財閥は……。
 特別なことは何もない、とでも言うようにサラリと返されたその言葉は元太や光彦を羨ましがらせた。


「諦めな」


 しかし布をばっつりと裁つような声が和やかな空気を切り裂く。割り込んできたのは四人組の少年だった。……いや、今はオレのほうが年下だろうけどよ。
 得意気に「立場が違うんだよ」なんて続けるサッカーボールを持った赤スーツの奴が、見た限り彼らの中で主導権を握っていることが多いのだろう。


「そもそもお前ら、ちゃんと招待されてんのかぁ?」
「失礼でしょ!? この子たちはれっきとした鈴木財閥うちの招待客よ」


 緑色のスーツを着た奴の言葉に園子が半ば怒鳴るように答えるが、少年たちが怯むことはない。「これはこれは、鈴木財閥の御令嬢」とうやうやしい礼を一つ返されただけだった。


「いいか、人間ってのはなぁ、生まれた時から人生が決まってんのさ」
「そうそ! 綺麗な服も着る人間を選ぶってわけ!」
「選ばれなかった人間は外から指をくわえて見てればいいんだよ」


 調子づいたのか、胸もとでバッジを輝かせながら口々に言う少年たちには呆れるしかない。こいつらが二世三世かよ、なんて心の中で思いながら、「この連中、スッゲームカつく」という元太の言葉を聞いた。
 しかし蘭の正義感は少年たちを許すことはできなかったらしい。それとも凝り固まった思考の子どもが心配になったのかもしれない。それは訊かない限り本人しか知り得ないことだ。


「お父さん、ちょっと説教してやって!」


 蘭の呼び掛けに、酒を煽っていたおっちゃんはからりと氷の軽い音を鳴らしてボーイに空のグラスを返す。喉に絡んだ酒混じりのたんを大きな咳払いで切らせ、少年たちの前へ出ると「いいかね少年たちよ」と大仰おおぎょうに腕を広げた。


「人生を舐めちゃいかんぞ。順調に見える人生にも、落とし穴があるもんだ。君たちも大人になればわかる時が来る」


 腰に手を当て、おっちゃんはふんぞり返った。
 同じだけの落とし穴であろうと、高い所に身を置く者ほど落ちた時の衝撃は大きなものとなるだろう。それは高い鼻をぽっきりと挫くかもしれない。心を砕いてしまうかもしれない。しかしだからといって低い所にいろとは言わない。
 一つ確かなことといえば、地に目を向けることをしなければ落とし穴の存在には気づけやしないのだ。


「女房に逃げられたり?」
「ぎっ」
「知ってるぜ? オッサンのことなら。『眠りの小五郎』って、眠ってる間に女房が出てったからそういうあだ名が付いたんだろ?」


 赤いスーツの少年の巧い返しに、少年たちは揃って大口を開けて笑った。どうやら説教は説教となり得なかったらしい。むしろやられてやがる。
 蘭もそこにフォローになってないフォローをいれ、さらにおっちゃんをへこませてしまった。今回何も悪くないおっちゃんには御愁傷様と言うほかない。


「へえ、生まれた時から人生って決まってんのか。それは道に迷わなくていいな」


 再びあの声が聞こえた。『信じて』とたったその一言だけでほとんどの人間の心を解してしまうような、少し低いその声が。


「だが、星空をしるべにするのも悪くはないぞ。……んで、ああ、えーっと、綺麗な服も着る人間を選ぶ……だっけか? ――どの服の話してんだ、それ?」
「あ?」
「……なっ!」
「…………!?」


 がっくりと項垂うなだれていたおっちゃんの脇から先ほどの男が前へと出てきた。男の言葉にハッとして四人を見ると、一体どんな仕掛けをしたのか、いつの間にか着ていたはずのジャケットが糸くず一つ残さず無くなってしまっている。


「いつの間に……!」
「クソ! どういうことだ!」
「お前がやったんだろ!」


 少年たちは男に怒鳴り散らす。男の青い目は飛散する唾を追っていた。


「……おいおいちょっと待てよ。何で俺なんだ? 俺が一度でもお前らに触れたか?」
「どー見たってお前が怪しいじゃん!」
「そーだそーだ! そんな場違いな真っ黒い服着て、不審者にしか見えねーっつの!」


 ……いつだ? いつコイツらのジャケットが消えた?
 挑発するようにニヤニヤと笑っている男を見るに、何かしたのは確かだろう。だがどんなトリックを使えば誰にも、本人にも気づかれずにジャケットを脱がせ、そして隠すことができる?
 三日月のような曲線をたたえている唇を見ていると、小さく何かを呟いたのが見えた。そして突然どこからともなく先ほど手渡した本とペンが現れる。
 今どこから出しやがった? まるでどっかの白いコソ泥じゃねぇか。
 男は何かを手早く本に書いている。一瞬視線が合ったが、こっちには興味がないとでも言うように視線はすぐにらされた。


「そんなに言うなら証拠でも出してみろよ、前途有望な少年たち。仲間に勘が鋭い奴がいるから、直感というものがとても重要で時に知識よりも役に立つことを俺はちゃんと知ってるぜ。さあ、俺の体は自由に調べてくれて構わないぞ。…………それとも、こっちがいいか?」
「……っ!!」


 その場にいた者すべてが息を呑む。それもそのはず、男が子供たちに向けたのは拳銃だった。黒いその身は光を鈍く反射している。
 先まで右手で持っていたペンはきっと、左手で開かれたまま持たれている本の上にでも置いているのだろう。


「ええと? 何だったっけか、『生まれた時から人生は決まってる』だったかな。ならここでお前らが助けを呼ぶ暇もなく、叫ぶ喉も持たず、呆気なく死んじまうのも決定事項なんだろうな。哀れとしか言いようがない。お前らが物語の住人なら、その不運さに俺は涙してたことだろうよ」


 ――やめろ。
 そう言いたいのに声が出ない。目の前の男がひたすらに怖い。底が見えず、寒気やら吐き気やら、さまざまな嫌なものがこみ上げてくる。何だこれ、こんな感覚初めてだ。
 今までもいろいろな事を経験してきたが、いつも怖さを感じる前に自分の好奇心や正義感、探求心などが先走り、立ち向かってきた。だが、今はどうだ。
 その気持ちすら一緒くたにまとめて根元から折られてしまいそうなほどの、恐怖。動物が持つ根源的なその感情が心を絡めとっていく。


「疑うことは相手を知ることだ。すなわち愛への一歩とも言えるだろうな。歓迎しよう。だが結論も出ない疑いはただの害だ。真実を出すこと、それが疑いを持った者の責任だぜ?」


 死んでしまったほうが楽だとすら思える柔らかな不気味さと穏やかな威圧感は、獲物を逃がすまいと捕縛して檻に入れるのではなく、広い草原の中で自由にさせている獲物を捕まえもせず後ろからじっとにこやかについてきて距離が永遠に離れないような、そんな恐ろしさがあった。


「責任は果たせそうか? 可能性を否定するのはあまり好むところじゃないが……ま、無理だろうな」


 きっと直接対峙している奴らはオレの何倍も恐ろしいに違いない。活気あふれる会場の中でここだけが空調の設定を変えられたように、周囲とは異質の時間の流れを持っていた。


「信じろとは言わない。疑うなとも言わない。だが害としないためにも、あるいは責任を表向きはないことにするためにも、対象おれの前では口を慎んでくれ。お前らは生まれつき有能なんだろ、できるよな?」


 緩やかな抑揚の付いた、耳だけに心地の好い修辞疑問文に子供たちは首振り人形のようにコクコクと必死に何度も頷く。「じゃあ……」男は右手で持った銃を子供たちから外し、帽子を深く下げて顔に落ちる影を広くした。
 男は満足したらしい。
 そうオレが思ったのも束の間、男の薄い唇にたたえられていた微笑は、糸で引っ張られたかのように一瞬で吊り上がった。
 床を向いていたはずの銃口が再び暗い穴を見せて――オイ、嘘だよな?


「やめ、」


 ――かわいた、おと

(P.5)


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