もう、波は消えない 不愉快だ、と初めはそう思った。 おかしな奴だと、思うようになった。 面白い奴だと、そう思うようになった。 いつの間にか、そうなった。 「……なあ」 「何よ、トラ」 「何でもねえよ」 「そう? それならいいわ」 「おう」 熟したような橙色が地平線に蕩ける夕暮れ時に、寅之助は撫子と肩を並べて歩く。 フィルターでもかけたみたいに橙色に染まった帰路は、何だか美味しそうに見える。 こう、何だろう、甘いような酸っぱいような、そのものズバリな橙―――――ようは蜜柑とか甘夏とか八朔とか日向夏とかそんなものを連想させて。 色からのイメージ(しかも食べ物、しかも爽やか柑橘系)とか、あんまり寅之助っぽくなさげな思考回路。 そんな回路がつながってしまった理由はたったの一つ。 「腹減った」 「あら」 きょとんとして、それからすぐに笑いをこらえ出した撫子の頭を小突いてやろうかどうか本気で考えてから、やっぱりやめた寅之助はふうとため息を吐いて空を仰いだ。 隣の女を軽く小突くのも億劫な位にお腹が減っていたわけなので。 腹の虫も泣き疲れて眠ってるのか死んでるのか、眠るように死んでいるのか死んだように眠っているのか、とにかく静かになってしまっていた。 そんな寅之助を見て、笑いを堪え切った撫子は持っていたバッグをごそごそと探り出す。 「? 何やってんだよ忘れモンか?」 「違うわよ。……ちょっと待って、たしかまだ……」 「あ?」 「あったわ!」 弾んだ声を上げる撫子の手に、小さな紙袋が一つ。 「……何だそりゃ」 「クッキーよ、央にもらったのがまだ残ってたのよ」 「へえ」 「貰いものだけど、良かったら食べない?」 「………いいのかよ」 「ええ、お腹がすいているんでしょう?」 差し出された紙袋をちょっと考えてから受け取った寅之助は、とりあえず開けて中を見てみる。 形の整ったクッキーが数枚入っていて、ふわりと何かの香りがする。 甘いような、酸っぱいような、そんな香り。 「いい香りよね、果汁を混ぜたらしいわ」 「ずいぶんと凝ったもん持って来てんだな、アイツ」 「あら、結構よくもらってるわよ? 『課題』の時に」 「へー」 じっと自分を見る撫子の視線になにか良くないモノが混じる。 当然のごとく課題を自主的にお休みをした寅之助はそしらぬふりで、クッキーを一枚口に放り込む。 香りと同じく甘さと酸味が程良い具合に混ざり合ってとても爽やかな味がする。 有り体にいえば、美味しい。 「……アイツ、案外出来る子なんだな」 「………才能って、やっぱり見ただけじゃ理解できないモノよね」 口を開けばまあ頭の悪い発言の多いクラスメート(らしい)少年の顔を思い出して、意外なモンだと感心する。 隣を見れば同じことを考えていたらしい撫子が微妙な顔をしていて、寅之助は何か楽しいようなそんな気分になって、ちょっとだけ笑った。 「ここでお別れね、じゃあまた明日」 「おー、気が向いたらな」 「もう! できれば課題にも出て欲しいわ!」 「まー、気が向いたらな」 「そればっかりじゃないの……まあいいわ、それじゃあ」 「じゃーな」 遠くなる背中をなんとなく見送って、空になった紙袋をくしゃりと丸める。 夕暮れの空は、赤味を増すばかりだ。 「腹が減ったな」 さっき食べたクッキーの味と、もう見えなくなった背中を思い出して。 なぜだろうか。 寅之助はひどい空腹感を思い出した。 110417 title/群青三メートル手前 |