りんごを買う。りんご、りんご。頭の中で何度もそう繰り返しながら、俺は青く甘いくだもののにおいで満たされている青果売り場をうろうろと歩き回っていた。
「ああ、紅葉くん。りんごはここよ」
 奈々に呼ばれ、はいお母さまとうなずいた。奈々はいつもと同じようににこにこ笑いながら、真っ赤なりんごをふたつ手にとって、どっちがおいしいかしらと見比べている。どうせ買うんなら甘くておいしいほうがいいものね、ねえ紅葉くん。もちろんですお母さま。けれども俺はりんごが甘かろうがなんだろうが、心底どうだってよかった。すき好んで食べるほどりんごがすきなわけじゃなし、奈々とふたりで買い物カートを押してまるで新婚夫婦のようにスーパーで買い物をしているということが、とてもとてもうれしかったからだ。
 カートに乗ったかごの中には奈々が選んだりんご、奈々が選んだチョコレート、奈々が選んだ飴、奈々が選んだ鶏肉、奈々が選んだにんじんやなんかの野菜がたっぷり入っている。全部奈々が選んだ、それだけで特別なものたち。俺はくらくらしそうになる。
「紅葉くん、最後はお米よ。迷子にならないようについてきてね」
「結局迷子になんてなるわけがありません、お母さま」
 奈々が俺の名前を呼ぶ。この名前に生まれてきて本当によかったなあなんてアホみたいなことを考える。もしも俺が紅葉でなくタノキチだなんて名前だったとしても、奈々は笑顔でタノキチくんと呼ぶだろうさ。ああ、奈々の子どもに生まれてきたかった。そうしたなら、毎日奈々のおはようとおやすみを聞くことができるのに。
「紅葉くん、紅葉くん。新米の試食いただいたわ、はいどうぞ」
 差し出された一口の白米を口に入れて、お母さまの炊いたご飯のほうがおいしいといった。奈々は素直に喜んで、新米を売る若い女の店員はあからさまな苦笑いを返した。


「あの若い店員さん、かわいい子だったわねえ」
 味噌汁を火にかける奈々のとなりで俺は鶏肉を蒸していた。俺が料理などできるわけもなく、正確には、奈々が蒸している鶏肉の入った圧力鍋をじっと見守っていたのだが、奈々のとなりにいたのでその気になっていたのだ。
「お母さまのほうがかわいらしいです」
「紅葉くんったらほんと上手ねえ。紅葉くんのお母さまと同じくらいでしょう、わたし。それをかわいいなんて」
 奈々が俺の肩をぱしぱしとはたく。そういうところがかわいいといっているのに、彼女は俺のいうことなどまるで相手にせずに、そろそろ帰宅するであろう子どもたちのために、冷蔵庫からりんごを取り出した。
「ランボくんはぶどうがいいっていうんだけどね。ぶどうはほら、皮と種が面倒でしょう。みんなが食べやすいほうがいいものね」
 しゃりしゃり、小さな音とともに奈々の手の中でりんごが赤から白へかわる。彼女にしてみれば、そりゃ俺は息子と歳もそう変わらないし、りんごを出されて喜ぶみんなのなかのひとりに過ぎないのだ。
「お母さま」
「なあに。つまみ食いはだめよ」
 俺があと十年歳をとったらデートしてくれませんかといおうとしたけれど、そのときには彼女の息子だって十歳歳をとっていると思ったのでやめた。俺は今死にたい。できるだけ奈々が若いうちに死んで、彼女の子どもに生まれ変わって、そうしたら今度は俺だけのためにりんごを剥いてほしい。


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