遠くで女の歌う声がする。
ちかちかとサイケデリックに点滅するネオンのあかり、いたずらに響くクラクション、客引きに遭うのが面倒でうつむけば猫の死骸が道端に転がっている。路地を通り過ぎるたびに聞こえてくるのは幼い少女の、つくったようなみだらな声だ。
歌はどこの店からか流れているのだろうと思って気に留めてはいなかったのだが、すぐそばにあったショーパブの店先で、ランジェリーだけを身につけた少女が口ずさんでいたのだった。
「おじさまの服、すてき」
パブの前を通り過ぎようとしたとき、歌声が止んで、代わりにそう声をかけられた。ここを通るまでに何度もボーイや女たちから声をかけられたが無視を決め込んでいたのに、俺は気づかぬうちに、ありがとうと返していた。
十四、十五、くらいだろうか。白に近いほどの金髪はくるくるとカールして、薄い肩にころんと乗っていた。屋外でありながら窓のない部屋にいると錯覚してしまうほど、ここの空気は重くこもって湿っている。その部屋に窓がついたような心地になった。美人ではないけれども、愛嬌のあるかわいらしい少女だった。
そういえばまだ十代のころは、こんなふうに笑顔のかわいらしい、やわらかな女の子がすきだった。ちょうどこの子と同じ年のころ。初恋の女の子の名前はもう忘れてしまった。
「きみはいくつ」
「じゅうはち」
「ほんとうに?こんなに愛らしい十八歳ははじめて見たよ」
「ふふ。ほんとうよ。ずっと、じゅうはちなの」
「どれくらいここにいるのかな」
「ずっと」
「そう。じゃあ、遊園地や動物園へはいったことがないのかな」
「知らないわ」
「そう。ここから出ていきたいと思うかい」
「いいえ。なにも知らないから」
俺はなんでも教えてあげるといった。今日から俺がきみのボスだからといった。その意味を理解できるはずもない少女は、からっぽの頭が透けるようなふわふわとした笑顔で、俺を見上げていた。
「ボスという名前なの?」
「親しいひとはそう呼んでくれるよ」
「ボスはここへなにをしにきたの。ボスは、わたしを買おうとしないのね」
「ああ、恋人を探しにきたんだ」
「恋人って」
「心から愛しているひとだよ。ずっと昔に、離れ離れになってしまったのだけどね」
さようならのキスを少女の額に落とす。きっと真珠の肌とはきみのためにある言葉だねというと、白い肌は骨が透けているの、少女がいって俺はどきりとした。昔、ビアンキも同じことをいったからだ。思わず言葉を発することを忘れて、大きな、チョコレートのような目がゆらゆらと揺れるのを覗きこむと、
「わたしのママンは、恋人を待っているといっていたわ。もう、わたしがうんとちいさいころ、死んでしまったけれど」
ビアンキはバスタブをあいしていた。雨の日のお風呂を特にあいしていた。バスタブのなかで聞く雨の音はとてもやさしいのだそうだ。
「ビアンキ、お湯に浸かってても青白いよ」
俺にはほんのすこしもやさしいと感じられなかった雨の音。なかも水、そとも水。そんなバスルームのなかで、俺は何度もビアンキの背中にキスをした。首にからみついた髪を避けて、ぽこりと浮き出た脊椎に。そうしてまっすぐに伸びる、彼女の中心となる背の骨に。悪魔の翼でも生えてしまえばいいと願いさえする肩甲骨に。いとしい生命を、臓器をつつむ肋骨に。
「わたしのからだの骨は、特別に白いの。それが肌に透けて見えているの。水のなかのいきものみたいですてきでしょ」
「ビアンキ、すきだよ」
「知っているわ。だから、お別れね」
からめた指のすきま。彼女は水かきがほしいのだろうと思った。この指と指のすきまを埋める水かき。羊水に似た、とぷりと軽くぬめる水の中を泳ぐための水かき。