ダウンジャケットを羽織ろうとして腕を通すと、なにかに引っかかった気がして首を回した。ザンザスが顔をしかめてジャケットの襟をつかんでいる。これを着るなということらしい。腹が立ったわけではなかったが、俺は短く息を吐いた。
「このあいだ買ったレザーのコートにしろ」
「てめえは俺のマンマかぁ」
 クローゼットを開けて腕を通したばかりのダウンジャケットをまたハンガーにかけ、ボルドーのレザーに手を伸ばす。まるで手のひらに吸いつくようにしんなりとした羊の革。俺はこれにさわるたび、ホームシックに似たさみしさに切なくなる。
 まだ十代のころ、デートをするだけで小遣いをくれるマダムと恋人ごっこをしていたことがある。もちろん数度めからはデートだけでは済まなくなっていたのだけれどいつのまにか俺のほうが夢中になって、母親よりも歳の離れた女の、手の甲に刻まれた皺にキスをしてはよく知りもしない愛をささやいていたのだった。
 そのマダムがよく着ていたジャケットも、ちょうどこのような手触りだった。それに触れて心の底にじわりと広がるのはマダムへの愛ではなく、当時の自分の苦悩や生きていた世界のせまさ、浅はかさ。かわいそうな自分への哀れみだ。
「早くしろ」
 気が変わっちまうぞ、とザンザスが急かした。外は寒いから出かけたくないとそっぽを向いていたザンザスに、いつでも俺の味方であるルッスーリアがお使いを言いつけてくれたおかげで、彼は重い腰を上げたのだ。
「外、雪降ってんだぜぇ。濡らしたらだめになっちまう」
「車までは傘をさしてやる」
「あんたが?」
「そうだ」
 玄関のドアを開けると粉雪を乗せた冷たい風が屋敷内に流れ込んできて、思わず目をぎゅっとつむって両手をコートのポケットに突っ込んだ。ぽん、と軽い音がして目を開けるとザンザスが傘を開いて三歩先で俺を待っている。

 白髪が美しかったマダムは俺が二十歳になるまえに亡くなった。歳を重ねて気づいたのは、マダムへの思いが愛ではなく恋だったのだということ。


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