風が吹いているわけでもないのに、背筋がぞくぞくとした。うしろのほうで、外まで見送ってくれたブティックのスタッフたちが、寒い寒いと声を上げている。夜はめっきり冷えるようになったという、昨夜テレビで誰かがいっていたせりふを思い出した。携帯を忘れて出かけてしまったせいで迎えが呼べない。タクシーを止めようと手を上げる。
その日はスクアーロにドレスを着せる約束をしていたのだった。もちろん初めは絶対にいやだだの気持ち悪いだのと駄々をこねていた彼だけれども、ベルとおだてているうちにすぐにその気になって、プリティウーマンの彼女のような黒のドレスを用意してくれよというまでになっていた。きれいなドレスを着て頭にはフェザーを飾り少しだけお化粧もして、あなたの大切な人の大切な日を祝いましょう。
タクシーのドライバーは愛想のいい紳士だった。一度日本でタクシーに乗ったときは驚いちゃったわ、煙草くさい車内で汗まみれのオジサンが半分眠りながら客を待っているんだもの。
「この通りで一番人気のパティスチェリアに寄っていただける?」
ドライバーはお任せください、とにこやかにいって、ハンドルをきる。ラジオからシャンソンが聴こえてくる。もっとボリュームを上げてほしいと思って口に出そうとすると、彼がそうしてくれたので、わたしは愉快な気分になって窓の外に目をやった。歩道をよたよたと歩く二、三歳くらいの小さな子に、母親が隣を歩きながら器用にマフラーを巻いてやっている。
「ガトーショコラならこの交差点を右へ、アップルパイなら左へ曲がりますがどちらへ?」
信号でブレーキを踏んだドライバーがわたしに振り返る。少しの間考えて、ボスはアップルパイという顔ではないわねと思い右へ、と返した。カチリカチリ、ウィンカーが小さく音を鳴らす。
「恋人のお誕生日ですか?」
「恋人よりも大切な子の、大切な人の誕生日なの」
いってしまってからはっとする。あの子に着せるのは、まっしろなドレスにすべきだったのではないか。いっそ彼の元へ嫁がせることができたなら、わたしはあの子のために夜中にカフェオレを作ってそれを届けにいった彼の部屋で朝まで彼の話を聞いてあげたり、寝癖が気になるという長い髪に朝からドライヤーをあてたり、そういった本来なら思春期の娘に母親がしてやるような様々なことを、もうすることもない。そうした時間の中でそれこそわたしはわが子にそそぐような愛情を、惜しみなく彼にそそいできたのだ。
「着きました、マダム・ルッスーリア。きっとボスもお喜びになるケーキがあります」
車が歩道に寄せられ、気がつけばドライバーはヴァリアーの隊服を着ていた。
「タクシーだと思ってたわ」
「スクアーロ隊長からお迎えにいくようにといわれておりました」
よく恋人の誕生日かだなんて言えたものねと意地の悪い口調でいうと、部下は相変わらず紳士らしく微笑みながら謝罪する。膝に乗せていたブランドショップの袋の中身のことに触れられる前にと、わたしはケーキを買いに車を降りた。外は、やはり風もないのに、背筋がぞくぞくとした。
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