スクアーロの手のひらはとてもさらさらとしている。夏でも少しひんやりとしたそれで、背中をなで回されるのがすきだ。そうしているときは、この男の左腕をあんなジジイにくれてやるんじゃなかったと思わざるを得ない。女じゃあるまいし、背中をなでられるだけで鳥肌がたつなんて気色悪いが、俺はそれはそれは彼の手を愛しているのだ。
幼いころに背中をなでられた記憶はない。なでてもらえなかったわけでなく、覚えちゃいないだけだ。ミルクを吸い泣くことでしか母を呼べない赤ん坊。きらいなわけではないけれども、自分もそういう過程を経てきたのだと思うと、気味が悪い。俺は俺であるというのに。
いつだったかスクアーロにその話をすると、おかしなやつだと笑われた。
「殺し屋も聖職者も生まれたときはみんな母親に抱かれる赤ん坊だったんだ、あんただってそうさ」
おまえは赤ん坊のときのことを覚えているかと聞いた。覚えているわけがないと返されて、おまえはそれが平気なんだなといった。彼はなんのことかといったふうに首をかしげて、開けたばかりのチェリーのリキュールにソーダを注いでいたのだった。
ひとりでパリを訪れたのははじめてだった。しばらく日本に滞在することになったので、その前にひとりで旅行をしておきたいと思って選んだのがパリだった。数年前にオペラ座でファントムを観たきりだ。あのときはスクアーロがどうしてもオペラ座で上演されるファントムが観たいといって、俺はデスクに溜めた書類もほったらかして彼を連れてきたのだった。あのとき観た舞台の美しかったこと。パイプオルガンの重々しい旋律、ファントムの憎悪溢れるテノール、まるで本当に崩れ落ちたかのようなシャンデリア。深く暗い地下の闇の中で、夜毎母を思い人を呪う青年を、スクアーロはおまえのようだといって泣いた。とてもかわいそうだと、俺が愛してあげたいと、俺がなんでもくれてやると。
「てめえの施しなんざ、なんの足しにもなりゃしねえよ」
そう耳元でつぶやいて、ボックス席のど真ん中でキスをした。舞台では何人もの歌手が死んでいるのに、のんきなもんだ。
フランスといったらそんな思い出しかなかったので、コーヒーを飲みながらパリの街を歩いても、本屋で気に入った表紙の小説を見つけても、その上アントワネットにひけをとらない美女に声をかけられても、それほど楽しくはなかった。まるで一人ぼっちのようだと思った。
パリに滞在して3日目の朝。ホテルのボーイが運んできたクロワッサンをかじりながら、俺はスクアーロに電話をかけた。
「なんだぁ、ボス。なにかあったのか」
「なにもねえ。なにもなさすぎて、つまらねえ」
「そりゃよかったなぁ。こっちは昨日から雨だ。ひでえもんだぜ、電車もバスも止まってる」
乗る機会はねえがな、スクアーロがいって笑う。はじめ、そのつもりはなかったのだが、俺はどうしてもスクアーロの手が恋しくなってしまった。赤ん坊が母を恋しがるそれと、似ているのかもしれない。
大きな窓から室内に射し込む朝陽が、俺の足をあたためる。
「パリに来い、スクアーロ。こっちは快晴だぜ」