いや、いや。
それがビアンキの口癖だ。俺はよく知っている。彼女は俺のことばに、必ずはじめ、いや、という。俺の提案や決定をすんなり受け入れるのがいやなのだ。その“いや”だと知っている。はいはいと頷いてすなおにしていればかわいいものを、とは思うのだが、そんな彼女を望むのはとうの昔にあきらめた。いや、いや。そういいながら、首を横に振る三十路の女も十分にかわいいものだ、そう思うあたり、俺も歳をとった。
「入籍しようか」
コーヒーいれようか。そんなふうに俺はいった。
「いや。わたしが望んでいたプロポーズとは、なんだかちがうわ」
「その、きみが望むプロポーズっていうのは、俺が三年前にやったアレだろ?レストランでばらと指輪を店員に渡しておいたやつさ。きみははずかしがって、なにもいわずに店を出た。俺を置いて。きみがいったんだろ、映画みたいなベタでくっさいプロポーズがいいって。俺にはあれ以上のくっさいことできないよ」
ビアンキはソファにすわって赤いクッションを抱いていた。若い女の子のようだ。11月に入ってから乾燥し出した肌に触れるとかゆみが出ると、長い髪を頭のてっぺんに近い場所で丸めている。うなだれた頭から、あらわになったうなじがとてもしろい。 あ、こんなところに骨が――。
首の付け根にぽこりと浮き出たまるい骨に目がとまり、思わず指でふれると、うなだれたままのビアンキが舌打ちをした。さわるなと。俺は、引っかかれる前に手を離した。
ビアンキとの間で結婚の話が浮上するようになってから、もう三年以上が経っている。一度や二度の話ではない。俺はいつでも結婚する準備――心も経済的なことも――ができているのだけれど、彼女はまだまだ心の準備ができていないらしい。そのくせ周りの友人たちが次々に結婚している、子どもってどんなものなのかしら、そんなことを、酔うたびに口にするのだ。
一度、このことを数少ない女友達に相談した事がある。ツナさんは女心がこれっぽっちもわかっていません!とつっぱねられてしまった。女心がこれっぽっちもわからないから相談したんだけどという俺のことばがあの子に届いていたかは知らない。
「三年前にやった、あのはずかしくてたまらなかったサプライズより、もっとはずかしいのがいいの」
舌打ちをしたままのテンションでビアンキがいった。
「うんとはずかしいやつ」
俺は二、三度まばたきをする。ふと、ビアンキの顔を覗こうと背中を丸めたが、彼女は抱いていたクッションに顔を押しつけた。
ビアンキ、こんなことするんだ。
「ビアンキ」
ふつうの女の子のようなことを。
「俺のこと、一生ひとりじめしたくない?俺はきみのこと、一生ひとりじめしたいんだけど」
ふたりで、腹を抱えてしばらく笑い転げたあと、俺はやっと彼女のうなじにさわった。