はじめて自分以外のだれかを“いとしい”と思ったのは、15歳になる春だった。恋というものはふわふわとしていて、幸福で、甘ったるいものであると、恋愛ドラマや小説のなかでしか知らなかったわたしにとって、腐ってつぶれたくだものをなめているような、それくらいみじめで苦しくてつらくてかなしいものとしか感じることができなかった。

 小学校を卒業するとき、父の転勤でとなりの市に引っ越すことになった。わたしの進学に合わせてくれたのだと気づいたのは高校生になるころだったけれど、とにかくわたしはその引っ越しがいやでたまらなくて、中学の入学式の当日まで、そのまっさらな制服に袖を通すのを拒んだことを覚えている。
 入学式から数日が経っても友達のひとりもできなかった。数人の女子に話しかけられはしたけれど、帰宅するころには彼女たちの名前も忘れている。毎日そんな日々の繰り返しだった。
「ねえ、より子、どんな音楽聴く?」
 春のあたたかさが増してきたころの昼休みに、つんつんに髪を立てた男子がわたしにそう声をかけてきた。顔は知っているので同じクラスのはずだけれど名前は知らない。いきなり名前を呼び捨てにされたことに驚きはしたけれどふしぎといやではなかった。
「当ててやろうか。パンクだろ」
 わたしは首を振る。
「じゃあメタル!」
「パンクもメタルもわからない」
「じゃあなに聴いてんの?まさかポップスなんていうなよ、俺はより子から、おなじにおいを感じたんだ」
 そのふたつのジャンルがどう違うのかもわからなかったので正直にこたえて、そしてわたしはひとりのギタリストの名前を口にした。それを聞いた瞬間、彼は大きく手を上げて雄叫びに近い、歓喜の声を上げた。
「俺、俺もすっげえすき!」
 クラスの男子たちが「上野うるさい」と叫ぶのを聞いて、わたしははじめて友達の名前を覚えた。

 それから毎朝、上野は学校の近くのバス停でわたしを待っていた。昼食のためのおこづかいでおにぎりをひとつだけ買い、残ったお金を出しあって煙草を買うためだ。コンビニでおにぎりを、人目を気にしながら自販機で煙草を買って、コンビニの駐車場の端で煙草を吸う。コンビニを経営しているひとの車なのか、一日中停まっているワゴン車の陰に隠れればかんたんには見つからない。はじめて煙草を吸ったときも上野に誘われてここで吸ったことを思い出す。
「これ、おすすめだから、聴いてみて!俺さまおすすめのパンクバンド」
 煙草をくわえたまま、ぺったんこの学生鞄から上野が一枚のCDをとり出した。
「また?もういいって。パンクはわかんないから」
「聴くだけ聴いてみて。こいつらさ、全員からだの半分以上にタトゥー入れてんの、かっこよくねえ?」
「……、なにがかっこいいのかわかんない」
「かっこいいんだって、ほら。こいつなんか右半身だけびっちり」
 CDケースからポラ写真を出してタトゥーだらけのイカレた奴らをわたしに見せながら、上野は子どものように笑う。
「俺もタトゥー入れてえなー、腕と足首にさ、かっこよくねえ?より子も入れろよ、蝶がいいな、絶対似合うから。あ、やべ、今日宮本にサッカーすっから早くこいっていわれてたんだった」
 スニーカーで煙草を踏み消して、上野はコーヒーの空き缶に吸殻を入れた。わたしもおなじようにしてから鞄を持って立ち上がる。コンビニから学校まではほんの五分の道のりで、そのあいだもずっと上野はタトゥーについて熱くわたしに語った。
「放課後、先輩の家に遊びにいこう。ギター教えてくれるんだ」
 上野はそういって鞄をわたしに預けると、校庭でサッカーをしている同級生たちの中へ走っていった。教科書も筆箱も入っていない上野の鞄はとても軽くて、歩くたびに鞄の中のおにぎりがかさかさと音を立てた。
「タトゥーねぇ」
 ちいさくなる上野のうしろ姿を見ながら、ぽつりとひとりごとを漏らす。まだ中学生のわたしにはタトゥーなんてテレビのなかの芸能人と同じくらい非現実的でとおいものだ。

 三年生になるころ、上野に彼女ができた。上野は彼女のことをとても大切にしていた。上野は放課後、毎日教室に残って彼女へ手紙を書くのだ。そうして書き上げた手紙を、下校する前に彼女の上履きの中へこっそりと入れておき、彼女は明日の朝その手紙を嬉々として手にする。手紙の内容を考えているのがわたしだということは誰も知らない。それでも、上野は彼女をとても大切にしていた。
「さっきさ、あいつに泣かれちゃった」
 上野がいうあいつ、とは彼の彼女のことだ。授業が始まってもわたしと上野は教室へはいかなかった。校舎とは渡り廊下でむすばれている技術室の裏でふたり、煙草の煙を吐き出しながら、青い空とそこを流れる雲をぼんやりと眺める。
「より子と仲いいのが気に食わないみたい。なんの心配してんだろうな、おまえと俺は親友なのに」
 そうだ、わたしたちは親友なのだ。だからわたしは上野のしあわせをきっと誰よりも願っている。
「そりゃ、彼氏がほかの女と仲よくしてんのは、彼女はいやがるよね」
「あ、おまえ責任感じて俺と縁切るとかいいそうな雰囲気じゃねえ?」
「それがたぶん一番いいんだろうけど」
「より子と縁切らなきゃいけないんなら、俺、あいつと別れるよ」
 驚いてとなりを見ると、上野は笑ってはいなかった。ただ真剣な表情で、わたしを見ていた。こいつはばかだ。とんでもないばかだ。だっておまえ、ずっと彼女に片思いしてたじゃないか。毎日毎日朝から晩まで彼女のことを考えて、今日ちょっとしゃべったんだ、とか、そんなくだらない報告やのろけ話を飽きるほどわたしに聞かせて、そしてようやくその恋が叶って、毎日しあわせそうに笑いながら彼女の上履きに手紙を入れていたじゃないか。
「わたし、上野のこと見損なった」
 わたしは立ち上がって、そのまま逃げるように走った。上野が彼女よりもわたしを選ぶといったことがほんとうはうれしかったのに、かなしかった。そうしてわたしは上野のことがすきなんだなあ、とぼんやり、けれどはっきりと、その思いがからだ中を駆け巡るのを感じていた。
 しばらくして、彼女と別れたと上野がわたしにいったとき、わたしはどうしていいかわからずに、そっかぁ、と軽く流してしまった。放課後の教室には上野のもうひとりの親友、宮本がわたしのとなりの席で漫画を読んでいた。ほかの生徒はとっくに下校を済ませていたので、教室にはわたしたちの三人しかいない。
「おまえが見損なったぶんをとり返すために、俺はこんなものを書きました」
 上野がわたしに紙切れを差しだした。今日のホームルームで配られたプリントの切れ端だ。二つ折りにされたそれを受けとって、開くと、上野のきたない字で大きくごめんなさいと書かれていた。
「……、なにに対してのごめんなさい?」
 わたしが思ったことと同じことを口にしたのは宮本だった。漫画を膝にのせたまま、わたしが持っている紙切れを覗きこんでいる。
「えっと、えっと、見損なわせたことに対して」
 上野は気をつけの姿勢でいった。あきれた、とつぶやく宮本。わたしはそのどちらもがおかしくて笑ってしまった。



「より子、そろそろ時間だろ。送るよ」
 アサがわたしに声をかけた。姿見のまえでくちびるにグロスを塗るわたしの肩に、ライダースジャケットをかけてくれる。
「髪上げていくか、下ろしていくか、まだ迷ってる」
「上げたほうが俺はすき」
「じゃ、下ろしていくわ。みんな、驚くだろうな。中学のときはずっとショートだったから」
 ジャケットに袖を通し、襟に入りこんだ髪をかきあげてなめらかなそれを軽く指でとかす。中学を卒業してから伸ばし続けた髪は、いつのまにか、腰まで届くようになっていた。
「同窓会かぁ。初恋の男の子とかくるの?」
 ブーツのジッパーを上げながらアサが聞く。わたしは彼の背後でふふ、とわらう。
「初恋なんてもう忘れた」


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