いつになったら春がくるのだろう。ついこの間しまったばかりのコートをクローゼットからひっぱり出して、あたたまりかけていた体に羽織る。もう三月も終わろうとしているのに、天気を窺おうと近づいた窓のそばはひんやりとつめたい空気をまとわせていた。
 暖房を消してリビングのドアを閉め、靴を履こうとしたところでコートのポケットの中の携帯が鳴った。電車に乗る前にマナーモードにするのを忘れないようにしないと、とぼんやり考えながら携帯を取り出す。callingの文字が点滅するディスプレイには見知った友人の名前が表示されていた。
「松本さん。今から家を出ますよ」
 肩に携帯をはさんで器用にスニーカーを履く。松本さんは大学で同じサークルに所属している。先輩なのだが僕は彼女を友人の部類に入れている。酒も煙草も、一通りのことはすべて彼女から教わったのだ。僕のように彼女をそう思っている人間はたくさんいる。彼女のまわりにはどうしてかいろんな種類の人間が集まって、財布にされたり足にされたりしながらも、彼女をとても大切にしているので、今日のようなほぼ強制的な飲み会の誘いでも、彼女が声をかければかなりの人数が集まる。
 僕が松本さん主催の飲み会に必ず出席するのは、彼女に会うためだけではないけれども。
「そうだ吉良、駅で雛森と合流してくれる。あの子今日使う居酒屋の場所知らないらしいのよ」
「え、そんな、で、できません」
 玄関を出て鍵をかけているときだった。彼女の言葉に声が上擦る。思わずかけた鍵をまた開けてしまった。抜けるはずの鍵が抜けない。がちゃがちゃと鍵を回しながら彼女の命令をもう一度聞く。
「電車使うのあんたたちだけなんだから。いい、ちゃんと雛森を連れてくるのよ」
 そのあとは一切僕の言葉を受け入れてくれないまま電話を切られた。僕は泣きそうになりながら駅までの道を歩く。雛森さんとは学科は違うが同じ高校だった。僕たちはほんの数ヶ月付き合っていた。高校生活三年間のうちのほんの数ヶ月だけだけれども、その数ヶ月のおかげで僕らはもう何年も口をきいていない。それを松本さんが知らないはずはないのに。僕は泣きそうになりながら駅までの道を歩く。


「ごめんね。いくら乱菊さんが頼んだからって、断っていいんだよ」
 もう帰りたいと何度も頭の中で叫びながらやっとホームで待つ雛森さんを見つけたと思ったら、第一声がそれだった。
「断る断らないじゃなくて、だって道、わからないんでしょ」
「うん」
 ぐるぐると首に巻きつけた厚手のストールが雛森さんの顔半分ほどを隠している。それがなんだかかわいいなあと思ったけれどもちろん言えない(きっとまだ付き合っていたとしても言えない)。数年ぶりに僕に向けられる彼女の声を聞いた。鈴が鳴っているようだ。
「いこうか」
「うん」
 僕はひとつひとつ言葉をそれは慎重に選びながら、彼女の数歩先を歩く。もう泣きそうではなかった。
「久しぶりだね、吉良くんと話すの」
 駅から繁華街にある居酒屋まではほんの五分だった。僕はちらちらと彼女の歩幅を気にしながら、できるだけ時間を稼ぐようにゆっくりと歩いた。
「そうだね。飲み会のときも、目すら合わせてくれなかったし」
「吉良くんがそらしてたんでしょ」
「ああ、そうかも。今日もそらすかもしれない」
「いいよ。あたしたちが付き合ってたこと、サークルのみんなも知らないし。乱菊さんくらいだよ、知ってるの。だから、それが自然だと思う」
「目が合う前にそらすけど、それまでは見てるよ」
 髪がだいぶ伸びたなあとかどんどん女になっていくなあとか、もう自分のものでもなんでもないのに、僕は彼女を見るたびにそんなことを思う。大学に入学したてのころに比べてずいぶん化粧がうまくなったとか、夕方まで崩れないおだんごが作れるようになったんだなとか。昼休みに結い直しているのかもしれないけれどね。
「僕は、雛森さんが恋しいよ」
 どうせ今日の帰りに告げるつもりだった。彼女から返事をもらうつもりはないので、飲み会の後でも前でも関係ない。どうせ、目も合わせない。


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