「阿呆だなあ、名前は」 「左門に言われたくないよ」 昼過ぎの教室に生温い風が入り込んできて、さらりと私と左門の髪を撫でた。 窓の側にいた私たちは快くそれを感受する。 けれども、壁際にいた三之助は自ら微風を避けているようだった。 さして表情の変化が無い顔をこちらへと向けて、左門は頭いいぞ、と呟くようにして発言する。 私は、知ってるよ、と返答した。 だって左門は会計委員だ。 それこそ阿呆みたいな数学でいい点を取れるのは、私たち七人の中でも、こいつ以外に孫兵くらいしかいない。 その代わり、現代文が壊滅的なのだけれど、恐らく左門が言った阿呆は、そういう意味じゃない。 「名前、作が変に意地っ張りで、変に理屈屋で、変に優しいところがあるのは、俺たち限定での周知の事実だ。でもそこが作の良いところだろ。お前も、そこに惚れたんじゃないのか?」 滅多に長文を喋らない無自覚迷子は、今日に限ってよく口が回るようだ。 こんな時にだけ介入して来るこの二人に、一つ溜め息を着くも、悔しいことに私は三之助に反論出来なかった。 そんな要素が、見当たらなかったのだ。 壁の影が掛かっている三之助の表情は、いつもの声色のはずなのに、やけに精悍に見えた。 「作を、嫌いになったわけじゃないんだろ」 椅子に手をついて身を乗り出しながら、真剣な表情で左門は言った。 私はそれに頷いた。 当然と言えば当然の話だ。 何処を嫌いになれと。 何を嫌いになれと。 例えこの二人に、作を嫌えと言われても、なれるかと豪語できる自信があるというのに。 「好きだよ、やっぱり」 「じゃあ、何で」 「何で、って。頭いい左門なら分かるでしょ。このままじゃあ作が可哀想じゃんか」 あっちへこっちへ振り回されるなんて、可哀想じゃんか。 馬鹿か。 阿呆か。 どうせ私は偽善者さ。 好きな人の前くらいはいい所を見せたいんだよ、分かれよ決断力迷子。 「何処をどう見て何が可哀想だって言うんだよ。納得するまで俺たちは引かねえぞ」 お前たちがまさに元凶だよ無自覚迷子。 さらにその上をいく元凶は私だよ。 なんてこった。 そこは引くのが通りでしょう。 お前たちのせいで作は毎日大変なんだよ。 委員会やら勉強やらあるのに、先輩に呼ばれる度に出動したりして、体育の授業の度に学校中探し回ったりして、もう本当それこそ可哀想なくらいに作は頑張っているんだよ。 それでそこに、私が介入しちゃったもんだから、作は過労死しちゃうかもしれないじゃないか。 第三者から見てるから気付くんだよ。 気付いちゃうんだよ。 作の一日はお前たちが大半を締めていて、作の内心もお前たちが全体を満たしてる。 だって親友だもの。 自我を持つ前の小さい頃からそうだったんでしょう。 そこに私が入ったら本当に、もう本当に作が可哀想だ。 私なんかに気を回してる暇なんてないんだよ。 ねえ、そうでしょう。 分かれよ、親友。 「迷子二人は作のおかんか」 「僕は、名前が作と別れようとする理由を知りたいだけだ」 「同意。ていうか俺、迷子じゃねえし」 教室の中に、軽くも重くもない沈黙が滞在した。 気軽に会話できる所と、あまり私に遠慮しない所が、二人の好きな部分だった。 今はそれが真逆になっているわけだけど、恐らく二人に悪気はない。 左門に関しては、全くと言っていい。 真剣に考えてくれてるっていうのは馬鹿な私でも分かるよ。 分かるんだけど、さ。 「聞いてどうするの」 「俺はどうもしない。ただ知りたいだけ」 「知ってどうするの」 「僕はどうもするぞ。作と名前が悲しむのは嫌だからな」 三之助はにやりと口角をあげて、携帯を弄り始めた。 作に言ったらぶっ飛ばす、と先に釘を刺しておく。 あーあー、はいはい、適当な返答に私は三之助を睨んだ。 左門はひたすら私を直視している。 目をかっ開いて少しも逸らすことなく、私からの答えを待っていた。 「端的に、一度しか言わないから」 「ああ」 「おう」 三之助は携帯を机の上に置いた。 左門は椅子に座り直した。 私は、二人に見えないように鞄の端を持って、逃げる準備を、した。 「私は、作の迷惑になりたくない。それだけ」 端的過ぎる程に端的だった。 言い切った私は無理矢理椅子を押し出すようにして、鞄を握り締めたまま扉へと向かった。 背後で左門が何か叫んでいる。 内容は分からない。 けれども、明らかに怒っている口調だった。 三之助は何も言わなかった。 言葉通り、どうもしないつもりなんだろう。 私は逃げた。 それ以外の何ものでもない。 ただ私は、逃げていた。 「名前!」 今度は、左門の言葉がちゃんと脳に伝わった。 静かだった教室に、その声が鼓膜が痛くなるほど反響して、私は一度、扉の手前で減速した。 減速せざる、負えなかった。 持ち上がっていた腕がだらりと下がる。 ああ、もう、三之助、あのやろう。 「作兵衛、」 扉の境界線を挟んで、教室側に私、廊下側に作。 私は茫然と突っ立ったまま、作は荒く呼吸を繰り返しながら向き合っていた。 頭一つ分程高い位置にある作の顔を見上げていると、突如として涙腺が緩んだ。 やばい、まずい。 作が此処にいるってことは、此処に立っているって、ことは、 「聞こえてたか、今の話」 私の疑問を、三之助が代わりに発言した。 口角の上がった奴の表情が、頭に浮かぶ。 私は振り向けなかった。 ただ、涙が眼球に膜を張っていくのを感じながら、作を見上げていることしか、できなかった。 「ギリギリアウトだ、馬鹿」 あの低音が、作の声が、私の鼓膜に浸透していく。 眉間にしわを寄せて、困惑したような、切望した顔で、作は静かに私の手を取った。 ああ、やっぱり、好きだわ、私。 「俺が嫌いか?」 酷く優しい声色だった。 私は小さく首を横に振った。 顔を歪ませないようにすることに精一杯で、目皿に溜まった液体は呆気なく頬を走っていく。 「どこで何を聞いたかは知らねえけど、俺は名前のこと迷惑だなんて、一瞬たりとも思ったことねえぞ」 左手で私の手を包んだまま、右手で私の涙を拭う。 外にいたのか、作の手は少しだけ冷たかった。 左門と三之助がいるにも関わらず、作は私の手を解放して、そのまま背中に手を回した。 作兵衛の匂いが、鼻を掠めた。 「分かってくれよ、名前」 途端に、私の涙腺は決壊した。 理解を求めている発言が、真上から降ってくる。 何がとも、何をとも言わなかった。 私はただ、作の胸に顔を押し付けて、嗚咽を漏らしながら頷いた。 少ししてからゆっくりと、作のではない大きい手が私の頭に一つ乗った。 恐らくこれは、三之助だ。 続くようにして、私の左肩に少し小さな手が置かれた。 きっとこれは、左門だ。 「万事解決?」 「良かったな、名前!」 元はと言えばお前たちも原因の内だよ迷子共、とか何とか言い返したかったけれど、頭の撫で方と、肩を軽く叩く手が酷く優しかったから、私は作の抱擁を感受することにした。 「にしても、あの作の慌てっぷりは稀に見るものでしたね、神崎くん」 「いやあ、名前を守りたいがための行動でしょうな、次屋くん!」 とりあえずこの二人は、作の代わりにあとでぶっ飛ばすことにしよう。 「馬鹿、当然だろうが!」 あー、好きだなあ。 11.02.10 縄梯子はどこだ!に提出させていただきました。 おまけに三之助が作兵衛に送ったメールの内容を以下に記しておきます。 「委員会中なんだろうけど、名前がお前を避けてた理由を本人から聞けそうだから、一応連絡しとく。俺らの教室で、左門も一緒にいる。でも今名前逃げそうだから、来るなら早く来た方がいいかも。てか、来てやって。泣いてるから」 三之助は周りを良く見れる子だと信じてる。 |