明日へ、戻りませんか。 僕が彼女を初めて視界に入れたのは、とある格子越しからだった。 彼女は一枚の紙を顔に貼り付けて、床に正座していた。 彼女がいつからそこに居たのかは、今となっては定かではない。 ただそんなことよりも、一目見た時の、あの脳を掻き回されるような衝撃が酷く愛おしかったのを、僕は今でも覚えている。 その時の僕は新入りの中でも一等新入りの、一人の牢屋守りとして働いていた。 彼女が牢屋に住むようになってから、どのくらいこの仕事をしていたのかは分からない。 けれども、やっていく内に、牢屋守りが僕の役割になりつつあるのは確かだった。 牢に入っているのが彼女独りになってからも、牢屋守りが僕独りになってからも、相変わらず、彼女は牢の中で生きていた。 数永遠経った頃、僕は二度目の衝撃を受けることになる。 彼女の顔に貼り付いていた紙は、脆(もろ)く欠けて、徐々に破れてきていた。 隙間から見えた彼女の肌に、僕は一度息を呑んだ。 彼女は格子の奥で正座していた。僕はとうとう耐えきれなくなって、彼女と目線を合わせるようにして、格子の前に膝をついた。 薄い何かがかすれる音が、鼓膜を撫でる。 一枚の紙の向こう側で、彼女が僕を見た、気がした。 よくよく見れば、紙には文字と思われるものが書かれていた。 牢屋守りの中でも僕は字が読める方だったから、それは文字で象られた顔だということに今更ながら気がついた。 へのへのもへじ。 僕にはよく分からなかった。 僕は紙を外そうと、格子の隙間から腕を入れて、彼女に手を伸ばした。 けれども、残念ながら僕の腕の長さでは彼女の位置に届くことは叶わなかった。 彼女が僕を見ているのか、見えているのかさえも分からない。 彼女は微動だにしないまま、ただ、正面を向いているだけだ。 へのへのもへじが僕を見る。 僕は途端に、頭を抱えて泣きたくなった。 すると、今まで黙っていた彼女が初めて、どうしたの、と僕に向かって、開口した。 鈴が転がるような、酷く澄んだ高声だった。 僕は一瞬惚けた。 まさか、彼女の声が聞けるなんて、思ってもみなかったから。 僕は顔を上げて、いや、と呟いた。 貴女の声が聞けて、嬉しいのだ、と。 僕は数永遠振りに口角を上げた。 彼女も紙の奥で微笑した気がした。 いつの間にか涙は引っ込んでいた。 それから、僕たちは格子を間に挟んで、様々な話をした。 彼女は名前と言うらしかった。 それはあちら側の名前か、と僕が訊けば、彼女は即座に肯定したので、僕もあちら側の名前を言うことにした。 左近。 川西左近。 彼女は僕の名前を何度も復唱して、いい名前、と言って笑った。 彼女の控えめな仕草と声を聞く度に、僕は胸が熱くなるのを感じていた。 僕と会話する際、彼女はよく笑う。 外の話をする時も、僕が牢屋守りになる前の話をする時も、数世紀前の事件の話をする時も、彼女の儚げな笑い声は絶えなかった。 そこで、あまり笑みを表に出せない僕は、一つ彼女に提案した。 顔を、見せてはくれないか、と。 彼女は例の顔を貼り付けたまま、しばらく黙った。 そして数秒経ってから、それは出来ないの、優しい牢屋守り、と真剣な声色で発言した。 それに僕は前のめりになりつつ、何故、と返答した。 すぐ様その答えは帰ってきた。 私が紙を外す時は、私自身が格子を跨ぐ時なのだと。 外へ出られる時に、私はこの紙を外せるのだと。 貴方に、私を殺してほしくないから、と。 瞬時に僕は理解した。 僕は牢屋守りだった。 彼女は牢の中に正座していた。 そういうことだった。 鼻の奥が、つんと引っ張られる。 つまりはそういうことだった。 それなら、と僕は言った。 最初の頃と同じように、格子の中に腕を突っ込んで、彼女の紙へと手を伸ばす。 あの時よりも、僕は成長しているらしかった。 一切動いていない筈の彼女の頬に、僕の指が触れる。 共に行こう、名前。 僕は紙を鷲掴んで、手前に思い切り引っ張った。 脆くなっていた紙は、容易く彼女の顔から引きはがされる。 誰かに見つかるかと思ったが、もう此処には僕と彼女しかいないことを、今ようやく思い出した。 僕は錆びた鍵で牢を開けた。 紙の無い彼女は、牢屋の中で茫然と立っている。 その彼女の手を取って、僕はそこから抜け出した。 彼女には、何も見えていなかっただろうから。 彼女を連れて真っ暗な牢屋から抜け出せば、あちら側とこちら側の境界線に差し掛かった所で、突如、彼女が足を止めた。 振り返れば、あの声と仕草に合った、彼女が、そこにはいた。 僕を見つめたまま、頬を撫でるようにして、彼女は泣いていた。 どうした、と僕は言った。 それに彼女は頭を振ってから、いいえ、と言う。 貴方の顔が見れて、嬉しいの、と。 酷く美しく、微笑した。 遠くの方で追っ手の声が聞こえる。 何処へ行くのですか、元牢屋守り。 僕の手を握り返して、彼女は静かに開口した。 仄かに伝わる体温を手のひらで感じながら、僕は彼女の手を握り締めて微笑した。 彼女は、それで理解したようだった。 ええ、私はどこまでも貴方について行きます、左近。 僕たちは二人で駆け出した。 彼女は泣いていた。 僕は泣かなかった。 詳細は言わない。 だって、隣には彼女がいる。 明日へ行こう、名前。 11.03.11 なんでもないのに提出させていただきました。 一応恋愛夢のつもりです。これでも。川西くんは手を繋ぐ止まりで丁度いい。 |