それは休みの日のことでした。

友達の家で勉強会をする予定で、朝早く起きて出掛ける用意をしていたときに掛かってきた電話は勉強会が出来なくなったお知らせだった。
残念だけど熱が出たのは仕方ない。さてどうしようかと暇を持て余し始めてしまい、このままじゃダラダラと休日を無駄に過ごしてしまう気がした私は特に宛もなく家を出たのだった。


「夏目のやつ、どこに行きおった!」


宛もなく家を出てふらふらと散歩をしていたら突然草むらから猫(だと思われる生物)が飛び出てきた。そこまではよかった。そこまではよかったんだけど。


「猫が喋った…?」


足を止め、目の前に飛び出てきたと同時に人間と同じように言葉を発したその猫を凝視した。
猫も驚いたみたいで体を強ばらせたまま硬直、ゆっくりと振り向いたその顔はやってしまったと言いたげだった。


「あれ…?君、もしかして…」
「そこにいたのかニャンコ先生!奴がこっちに向かってるから急いで離れ───!?」


私を見て固まる猫の後ろから全速力で走りながら叫んでいるのは夏目くんだった。
私を見るなり目を見開いた様子だったけど不味そうな顔をした。その後何かを振り切るかのように頭を振った彼は走る足を緩めることなく目の前の猫を片手で抱き抱え、もう片方の手で私の手首を掴んでそのまま走った。


「えぇ!?なに!?」
「ごめん苗字さん!今は走って!」


まさか自分まで掴まれると思わなかったため、突然走ることになっても足はすぐにはついていけず何度か縺れて転げそうになった。その度に夏目くんは掴んだ手で支えながら走る速度を緩めないようにしっかりと引っ張った。
何から逃げているのだろう?奴がこっちに向かってるって、誰のことだろう。そう思い後ろを少し振り向いてみたけど何かが追ってくる様子はなかった。
でも私の手首を掴み、脇に抱えた不思議な猫と切羽詰まったような声色で話しながら全力疾走している夏目くんの横顔は真剣だったから、冗談でもないし遊びとかでもないことはわかる。


「夏目くん!確かそこを右に曲がったとこ、廃屋があったよ!」


私の声に夏目くんは真っ直ぐ突っ切る予定だった道を慌てて右に曲がり、ぐにゃぐにゃとうねった道を走ればすぐに庭の手入れもされていないボロボロの廃屋に辿り着いた。
誰もいないことを確認しながら中へと入り、私には見えない追手に見つからなさそうだと夏目くんが言う部屋に身を潜めた。


「ごめん苗字さん、急に走らせてしまって…」
「大丈夫。結構疲れちゃったけど捕まっちゃダメなんだよね」
「えっと、その…結構後ろの方に追手がいて、あの…」


必死に説明しようとする夏目くんと隣で呆れた顔をした猫。思わず笑いそうになるのを我慢した。
と同時にそういえば、と思い出したのは夏目くんの挙動が少し変わってるという噂話。夏目くんが時々何も無い空中を見て驚いていたり、誰もいない橋の上で誰かに向かって話す姿が目撃されているってクラスの子が話しているのをたまたま耳にした。
そのときはあんまり気にしてなかったけど、何かあるのかもしれない。夏目くんにしかわからない何かが。こうして追いかけられて逃げているのも、きっと私にはわからない理由があるのだろう。
普通ならひとりで逃げる方が楽なのに、面倒でしかないのに私を連れてきてしまったのも、夏目くんにしかわからない理由。



「ねぇ、その追っ手はどうすれば振り払えるの?いつまでもここにいるわけにはいかないでしょ?」
「苗字さんにまで危害を加えられたくなくて一緒に連れてきちゃったんだけど…奴の狙いは俺だから、苗字さんには何もさせないよ」
「そうじゃなくて。夏目くんは大丈夫なの?私が無事だとしても、夏目くんに危害を及ばせるような人なら私は黙ってられないよ」


私を安心させるためだろう、いつもの様に柔らかく微笑んだ彼だった。彼なりの気遣いだったんだと思う。だけど私は納得いかなかった。だってそうでしょ、大事な友達を置いて帰るわけにはいかないし、何よりその追ってくる人物が夏目くんを狙っているのであるなら私だって放ってはおけない。…怖いけど。


「夏目くんには夏目くんの事情があると思うから、私からは聞かないけど…でも夏目くんに何かあったら私だけじゃなくて夏目くんの周りにいる人たちみんなが悲しんじゃうよ」


目を見て真っ直ぐにそう言った。
夏目くんの瞳は揺れていた。


「苗字さん…ごめん。それと、ありがとう」
「ううん。私こそ偉そうにごめんね。もう少ししたら様子見ながら外に出よう」
「そうだな。諦めて帰ってくれるといいんだけど」
「相変わらず変なのに好かれやすいんだね。友人帳なんて人からすればそこまで大事に守るようなものでもないんじゃない?」


隣に座る夏目くんが目を見開いて私の方へと顔を向けた。私はまた変なことを言った気がした。相変わらずってなんだ、友人帳ってなんだ。
そうやって考えているうちに夏目くんが口を開いて何かを言おうとしたのに、ガラスの割れる音でそれは掻き消された。
それと同時に背中に大きな衝撃と鈍い痛みが走り、体が浮いたような感覚に襲われて視界がブラックアウトした。

意識がプツリと途切れる前に、物凄く遠いところから夏目くんが私を呼ぶ声が聞こえた気がした。