パッキンアイスとチューペット | ナノ






これは俺が関西へとひとり引越し、スポーツ入試推薦を合格した高校生としてこれからの新生活をスタートさせようとしていたときから始まった話だ。



「隣に引っ越してきました。角名です」



今時こんなにボロいアパートあるかよってぐらいそこそこ古ーいアパート。家賃は3万円。1Kの6.5畳。そしてトイレ・洗面台・風呂の3点ユニット、ベランダ無し。日当たりはまぁ良好。

そんなボロアパートの202号室に今日から住むことになった俺は実家から送られてきたお隣さんにご挨拶する時用の粗品を持って現在挨拶回りをしているところ。



「あら、高校生?一人暮らしなんて大変やねぇ」
「まぁそうですね」
「うちの孫ももう高校生や言うてたかいなぁ。せやかて親御さんも巣立たせるん寂しかったやろうにほんま────」


(話が長ぇ)



左隣の203号室に住む老夫婦のばあちゃん。
→話し出すと止まらない。耳は遠め。まぁ悪い人ではなさそう。

そんな風に脳内でメモしてたら突如鳴り響く黒電話の音にばあちゃんが反応して部屋へと入っていく。メモ追加。電話のときはビビるほど声がデカい。



(あとは…201号室か)



もうひとつ用意した粗品を片手に反対側の部屋の前へと向かう。このアパートにインターホンなどという高価なものは無いため、ドアをノックして名前を呼ぶのがいちばん住人の反応が良さそうだ。

コンコン、と2回指の関節で叩いて名前を呼んでみようかと息を吸い込むも、表札が無いことに気がつく。誰も住んでいないのか。もう一度ノックしてみるも住人が出てくる気配がないため諦めて部屋へ戻ろうと背中を向けたとき。

バタバタと足音が近付いてきたかと思えばガチャリと大きな音を立てて鍵が開かれた。振り向いた先のドアは開いていてそこから覗く顔は金縁の大きな丸メガネに水が滴る毛先、風呂上がりであろう姿のその人は口にパッキンアイスを咥えたまま何度かキョロキョロしたあと俺を見上げて目を見開いた。



「でっ…か、」
「…隣に引っ越してきた角名です」
「えっ。…あぁ!名字です。どうぞよろしくお願いします」



小声で悪口とも取れる言葉が聞こえた気がしたが敢えてここは触れないことにしておこう。
体をその人───名字さんの正面に向けてお辞儀をすると向こうも慌ててドアから体を出してお辞儀をした。
春先とは言えどタンクトップに脚の8割ほどが出るほど短いスウェット生地のショートパンツは如何なるものかと思う。
金縁丸メガネの向こうの瞳は色素が薄くて綺麗だった。わりと美人なんじゃないの、と心の中で思いつつ俺よりも遥かに低い名字さんの手に粗品を差し出した。



「これ、お近付きの印にでも」
「えっ、えっ!?ありがとう、ございます」



謎にキョドりながらも名字さんが受け取ったのを確認してまた背中を向けて初日から何かと疲れるなと思いながら部屋に帰ろうとした。
しかし「君!」と声を掛けられたためそれは阻止される。



「…角名です」
「えっと、スナくん?君、見た感じ高校生やんね…?」
「正確には今月から高校生です」
「その若さで!?すごいなぁ…最初どこのスポーツ選手が引っ越してきたんや思ったけど偉いね!なんかあったらいつでも頼ってや!」



まぁ、スポーツ選手みたいなもんですけど。
心の中でだけそう突っ込んで口には出さず、ありがとうございますとだけ伝えた。
ニコニコしながら俺を見上げる名字さんは悪い人ではなさそうだし、むしろ良い人っぽいし良かった。
謎の安心感を抱きながら部屋に戻った俺はまだ手を付けていないダンボールを開く。


そう、この時はまだ化けの皮が剥がれていなかったのだ。
このあとなかなか苦労する日々を送ることになるとは、この時の俺はまだ知る由もなかった────。







「倫太郎くーん!朝やで!起きな朝練間に合わんやろー!」



日に当たる畳の匂い。この匂いにももう慣れた。
母親が選んで送ってくれた真っ黒のカーテンは開け放たれたままで、そこから差し込む陽の光が眩しくてただでさえ細い俺の目がなかなか開かない。

俺が稲荷崎高校に入学し、一人暮らしを始めてから二度目の春が訪れた。
この一年でバレー部でのポジションも段違いに変わったし、関西での学生生活にも慣れつつあった。



「倫太郎くーん!起きてる!?」



それともうひとつ。
201号室の隣人がとてつもなくうるさくて馴れ馴れしくてお節介な人物であることもわかった。



「…起きてます」
「おぉ!よかった!はよ起きて顔洗いや〜」
「いや、あの。ここ俺の部屋なんすけど」



昨夜は鍵を閉めて寝たはずなのになぜか隣人───名字さんが俺の部屋でドン引きするほどフリッフリのレースが装飾された真っ白のエプロンに身を包みながらキッチンに立っている。

床に敷かれた俺の寝床の目の前に置かれた木製のローテーブル(こたつ機能付き)の上にはホカホカと美味そうな湯気をたてた朝ごはんが並んでいて、寝起きの頭には相当厳しいボケが散りばめられていた。



「お弁当できたしここ置いとくな〜」
「いや、だからそうじゃなくて…」
「あっ、鍵?ここのアパート全部の部屋共通の鍵なんよ」
「」



絶句した。セキュリティーガバガバかよ。
使った調理器具を洗いながら一年前は良い人そうだと判断した笑顔を浮かべる名字さんに思わずため息が出る。

なんなら昨日帰ってきて疲れてそのまま脱ぎっぱなしにしていたジャージも授業で使った体操服も見当たらないし、玄関の外に設置した洗濯機の稼働音が聞こえる辺り洗われているのだろう。
有難い。普通なら有難いはずなんだけど、迷惑。



「朝ごはんとか洗濯物とかありがとうございます。でももう起きたし大丈夫なんで部屋に戻ってもらっていいですか」
「私のことは大丈夫やで!今日の講義は昼からやからな!」
「いやそうじゃなくて」
「あと歯ブラシの毛先すんごいことなっとったから私のとこの予備開けて置いといたんやけど、硬さ普通でよかった?」



こいつ…耳が無いんじゃねーの?
寝起きの低血圧じゃなかったにしてもこのスルースキルは腹が立つ。

無視してとりあえず洗面台に向かい顔を洗って歯を磨いて部屋に戻ると今度は机の前に座って昨日俺が買ってきた月刊バリボーを読みながら「ほー」とかなんとか感嘆している。
その金縁丸メガネ、ぐっちゃぐちゃにしてやろうか。
めちゃくちゃ文句を言いたいし追い出してやりたいけど時間が無いことは事実。大人しくしていれば穏便に帰ってくれるだろうと半ば祈りに近い形で諦め、座って朝ごはんを頂くことにした。



「…いただきます」
「はいどうぞ〜」



美味い。ムカつくぐらい美味い。
今すぐ机をひっくり返して丸メガネをぐっちゃぐちゃにしてから俺がもう使った新品の歯ブラシで顔を全力で磨いてやりたい程には腹が立つが、美味い。

心の中で何度もフリフリエプロンを引き裂いて燃やしながら、無言で用意された朝ごはんを平らげた。



「ご馳走様でした。明日からはもう大丈夫なんで、俺に構わず朝はゆっくり寝ててください」
「お粗末様でした。若いのに気ぃ遣わんでええんやで!私は暇やさかいにな〜」



気遣いではないし、頼むから一生寝ててくれ。
変に返事はせず学校の用意をして着替え、家を出ようと携帯をポケットに入れて玄関へ向かうと名字さんが慌ててこちらに来た。
その手には見たこともなければ可愛くもないキツネの顔がいっぱい書かれた小さなカバンに入れられた弁当が。
いや、受け取るわけにはいかない。これ絶対持ってったら帰りもいるし、なんなら明日の朝も絶対来る。
気付いていない振りをして俺はドアノブを捻った。



「倫太郎くん、忘れもん!」
「大丈夫です。持ち物は全部確認しましたから。片付けとか洗濯物とか帰ったら俺がやるんで置いといてください。じゃ」



早口でそれだけ言って部屋を出た。
相変わらずボロくて錆まくってる階段を駆け下りながら鍵のことを言い忘れたと思ったが、どうせ全部屋共通な上に盗難にあって困るようなものもないので気にせず学校へと向かった。







「で、遅刻したってわけやな」



目の前で普通の男子高校生が食べるであろう量の2倍はあるパンと弁当とおにぎりを平然と食べてる治に今朝の出来事を聞いてもらった。
結局訳の分からないやり取りが多かったため朝練には遅刻、北さんの説教といつもの練習メニューにプラスでサーブ練にボール磨きを追加されて朝からどっと疲れたわけ。



「もう頭おかしいんだよあの人。弁当入れるカバンのキツネが忌々しくて仕方なかったし」
「弁当に罪はないんやで」
「…治は気楽でいいよね」



見ているだけで腹一杯になる量をわりかし幸せそうにいつも食べる治は同情するわけでもなく(弁当には同情してた気がする)、俺は購買に行く元気もないまま椅子の背もたれに顎を付いた。


兵庫に引っ越してから一年。
最初は本当に良い人かなと思ってた。
エンカウントすれば挨拶と労いの言葉、時々心配性なんだなと思ってはいたがそれがだんだんエスカレートしていった。

隣人あるあるなのか、「これ余ったから食べてや!」と肉じゃがを始めとする家庭料理のおかずを分けてくれていたのが朝起こすために部屋の壁や玄関のドアを叩かれるようになり、俺が不在の間に仕送りの荷物を代わりに受け取っていたり、部活で痣を作って帰れば大きな救急箱を持って出てきて大袈裟な手当をされたり…エトセトラ。

わりとグレーゾーンなことばかりだったのが今日、ついに不法侵入を犯されてしまった。
しかも歳上女性がフリッフリの真っ白エプロンって。今時小学生の女の子でもそんなの着たいと思わねーぞ。



「角名おるかー?」
「侑じゃん。どうかし…た………???」
「おーよかった、まだ購買行っとらんかった。さっき部室に忘れもん取りに行ったとき門にお姉さんおってな?角名と知り合いやったらこれ渡してって言うて預かったんや」



聞かなくてもわかる。
忌々しいブサイクなキツネの書かれた小さなカバン。その中身はあの妖怪金縁丸メガネ女が作った弁当であると。

侑は俺と治がいる席まで来てニヤニヤしてるけどそうじゃない。名字さんはそんなんじゃない。お節介を通り越して不法侵入まで犯した季節感無しクソ隣人モンスターだ。



「それ、言うてた弁当?」
「治が食べていいよ」
「ほんまっ?おおきに」
「角名くんも隅に置けないでちゅね〜!てかチベットスナギツネ似とるな」
「侑、それ以上言ったら今日俺に上がったトス全部侑の顔目掛けて打つから」
「怖っ!!なんなん!?」



騒がしい片割れと幸せそうに名字さんが作った弁当を食べる片割れを尻目に俺は机に伏せて目を閉じた。
あぁ、目を閉じても瞼の裏には満面の笑みを浮かべたフリッフリエプロン姿の金縁丸メガネ女が…病気じゃん。



「実家に帰りてぇ…」



切実な思いを抱きながら腹の虫の素直な鳴き声は聞こえない振りをした。

このあと案の定うるさい侑の顔に2回ほど顔面スパイクを食らわした後、洗濯物を畳む名字さんがいる部屋に帰宅して今日一大きいため息をつくことになる。


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