「じゃあ私、仕事行ってくるから。ご飯は今日は悪いけど冷蔵庫にあるやつ適当に食べてて」 そう言いながら11cmのヒールを履く。いつも思うけどなんでこうも履きにくいし歩きにくい靴を履かないといけないんだろう。 黒尾くんは玄関で私の姿を不思議そうに見ていた。 「どうかした?あ、出かけるならここに合鍵あるから」 「いやいや、そうじゃなくて。今からお仕事なんですか?」 「あー、うん。夜勤ってやつ」 「名無しさん、もしかして夜のお姉さんなワケ?」 そんな質問をいきなりされるのも当たり前だろう。昼間の姿と打って変わってメイクは濃いし身なりも少し普通とは違う。 私は曖昧に笑っていってきます、と言い残してドアを開けた。 相変わらず夜の街はうるさい。 静かなことなんてないんだけどね。 「ナナシさん、本指入りましたー」 「はーい。行きます」 ボーイに声を掛けられて裏から出る。 いつも贔屓にしてくれてる40代後半の既婚者男性だ。 仕事終わりで疲れてるであろう彼の手をマッサージし、愚痴を聞きながらお酒を飲む。 「あれ、ナナシちゃん。何かいいことあった?」 「えっ、そんな風に見えます?」 「なんか新しいオモチャでも買ってもらった小さい子みたいだよ」 顔に出てただろうか。 内心、そわそわしていた。黒尾くん、ちゃんとご飯食べたかなとか。明日の昼間に黒尾くんの日用品買いに行かなきゃなとか。 言葉は悪いけど、ペットを飼い始めたみたいなそんな感じ。 「わかります?昨日からペット飼い始めたんですよ」 「へぇー、いいね!何飼ったの?」 「……黒猫?」 それも結構大きい猫、と笑えばお客さんは微笑ましそうに私を見てグラスに口を付けた。 ○ 送迎の車から降りてマンションへ続く道へと歩く。 今日は調子に乗って飲みすぎたか。いや、きっと途中で席に一緒についた新人のボーイが入れた酒が濃かったんだと思う。 誰も聞いてないのに心の中でそう言い訳しながら部屋の鍵を開け、玄関に入る。 「おかえ酒くせっ!」 突然現れた大きな影に正直驚いた。 そうだ、黒尾くんがいるんだった。 「ただいまー。あーもー疲れた!眠い!早上がりでよかった!」 「何、名無しさんって人気なの?」 「へへーん、まぁね!」 先程まで呼ばれていた名前と本当の名前の違いに違和感を感じながら、カバンをポイっとソファーに投げてそのまま私も身を投げる。 着いてきた黒尾くんはソファーの前の床に座り呆れたように私を見ていた。 「何よ。ダメな大人だとでも思ってんでしょ?」 自虐気味に笑いながら顔を上げて黒尾くんを見ると少し目を見開いたあと彼はふっと笑った。 この野郎。 「いや?大人のオネーサンが都会で一人暮らし、頑張ってんだなーってネ」 「馬鹿にしたでしょ絶対!」 目の前にある黒尾くんの肩を軽くパシッと叩くとケラケラ笑われた。少しは打ち解けつつあるのだろうか。 と言ってもまだ初日なので気を使っているのが目で見てわかる。そわそわして落ち着かない様子があるのも、なんとなくわかる気がする。 「明日、昼間に黒尾くんの使うもの買いに行こっか」 「えっ…なんか申し訳ないデス」 「気は使わないでね。あと敬語とかもいーよ、なんか気持ち悪い」 ふわふわした感覚に飲まれないように携帯を開いてアラームをセットする。今日みたいに寝過ごしたなんてことがないように。 もうすぐ深夜の4時を迎える。 さすがに眠たいのだろう、黒尾くんは欠伸を飲み込んで目に少し涙を浮かべながらこちらを見た。 「そうと決まったら早く寝ないと。ほら、今日は私のベッド使っていいから」 「はっ!?いや、俺はソファーで寝るから…」 「私がここで寝たいの。幸い動かなくても昨日使った毛布がここにあるから」 ソファーの隣に畳んで置きっぱなしだった毛布を手に取りもぞもぞと丸まった。 私の姿を見てため息をついた黒尾くんは諦めたようで、立ち上がった。 「電気消しといてー」 「化粧は落とさなくていいのかよ」 「んーもう眠たいから無理」 「はいはい…じゃ」 おやすみーと眠気で呂律が回らないまま言うと黒尾くんも小さな声でおやすみ、と返してくれた。 電気が消されて真っ暗になった部屋に心地良さを感じて私はそのまま目を閉じた。 ごそごそと布団の音がする。よかった、ちゃんとベッドで寝てくれるみたいだ。 安心すると同時にもうダメだと大人しく睡魔に襲われて私は意識を手放し、ゆっくり夢の中へと沈んでいった。 黒尾くん、ちゃんと元の場所に帰れるかな。 帰れるまで私が彼をちゃんと助けてあげられるかな。 そんなことを夢の中でも考えていたけど、翌日には綺麗さっぱり忘れていたのだった。 [しおり/もどる] |