Drink it Down. | ナノ






昔、本当の昔。小さな頃。
よく近所の公園で遊んでた友達がいた。

男の子か女の子かわからないような可愛らしい顔をした子だったのを覚えてる。
よく喋り、よく笑い、よく走り回るとても元気な子で小さな私にさえ眩しく見えた。


ある日突然、その子はいなくなった。
引っ越したのだと母は言う。

さよならも無しに?

とても寂しかった。悲しかった。




「鉄朗…?」



その数倍、いやもっともっと。
表しきれないほどの悲しみと寂しさは混ざりあって絶望と化す。

空白の隣。つい先程、ほんの数秒前まで確かにそこには私の愛する人がいたのに。震える指先を抑えることなくその人がいたであろう場所に触れるとまだ温かかった。彼は確実にここにいたんだ。
なのに、なのにこんな突然。そこに元々いなかったかのように静かに消えてしまった。

戻ってしまったのだ。
彼は彼のいるべき場所へ。



「…嘘でしょ?」



返事をする者はいない。先程渡した綺麗なラッピングの箱はそっと物音無く床に落ちていた。テツが不思議そうにその箱を嗅いで首を傾げている。

いずれこうなることはわかっていた。だから彼と、鉄朗と一緒に過ごした時間を残しておきたくてアルバムを作った。色んなところでデートした。様々な会話に毎日花を咲かせた。
突然彼が帰ることになったとしても、大丈夫ではないけれど笑って見送れるようにと思っていた。思っていたのに。



「こんな終わり方…私、受け入れられないよ…っ」



泣くことも出来なかった。
さよならの実感が無かったから。
怒ることも出来なかった。
こうなることが彼の最善だから。

止めることも出来なかった。
跡形もなく静かに帰ってしまったから。



私、またひとりになるの。





どうしていいかわからなくてソファーに座ったままボーッと無駄な時間を過ごした。何も考えることが出来ない。鉄朗の顔を思い出すことも苦痛ではないけれど私の心が拒絶した。
今何時だろう。もう朝かな。寝れなかったな。
そう思ってテーブルの上に投げ出されたままの携帯に目線を移らせるとタイミング良く画面が光った。



「…もしもし」
「あっ、ナナシちゃん?お疲れー!あのさ、明日出勤出来たりしない?」



仕事場のボーイからの電話。何も考えたくないし今は誰とも話したくない気分だけど、仕事をすれば何も考えなくなるのかもしれない。
逃げることしか頭になかった。逃げたくて仕方がなかった。受け入れたくないなら、受け入れなくていいようにすればこの虚無感もいつか消えるんじゃないか。



「はい。明日オープンラストで入ります」



前の私に戻るだけ。
毎日のように派手なメイクにドレス、客に笑顔を振りまいてお酒を飲んで朝になれば眠るだけ。陽の光を遮断するだけ。

キラキラと眩しかった鉄朗との日々を夜の街のネオンに重ねて消していく。私は電話が終わるとそっとそのまま目を閉じてソファーに身を沈めて眠った。









出されたお酒を飲み干す。
笑う、褒める。
媚を売って自分のためにお金を使ってもらう。

そしてまた飲み干す。


その繰り返しの日々。





「ナナシ、痩せた?」



久しぶりに会ったキャストの先輩に声を掛けられて私は曖昧に笑った。正直鉄朗がいなくなるかもしれないと話をした日からあまり食べ物が喉を通らなくなっていた。鉄朗の前では食べてるふりをしてたけど、実際日に日に食べる量は減っていた。

増えたのは煙草の本数とゲームをする時間。今日も今まで気遣っていた換気扇の下の灰皿をリビングのテーブルに持ってきて吸いながらアプリを開いていた。無心になれることしか、今はしたくない。



「最近やってるゲームが面白くて、ついご飯を忘れちゃうんです」
「へー、なんのゲームやってんの?」



キャストと話してるときはとても楽。
客と話すときも、お金にするために気分良くさせて持ち上げればそれでいいだけ。
ボーイとは話したくない。無神経な男が多くて、鉄朗ならこう言ってくれるのにって思ってしまう。



「ナナシさん、新規ついてもらうことってできます?」
「あー…そうですね。連絡まだなんでいいですよ」



飛び込みで入ってきた新規の客。ほとんどが自分の呼び客だけどこうして時々新規も付けとかないと、売上が伸びない。

数打ちゃ当たる、みたいなとこ。まぁ私のお客さんはみんな大体系統が似てて、その新規が似たような人とは限らないから次に繋がるかわからないんだけども。



「失礼します」



案内された席まで行けばすでにウイスキーのロックを嗜み始めた男性が座っていた。
ちらりと私を見てグラスを置くとにっこり笑うその男性はどこかで見たような、でも初めて会うようなよくわからない感覚だ。



「はじめまして、ナナシです」
「ナナシちゃんか。可愛いね」
「ありがとうございます」



他愛もない会話。
男性は40後半から50代前半といったところだろうか。優しい目元がとても素敵で笑うと目尻に皺が寄る。

彼は私がお酒を飲もうとグラスに触れたとき、そっとその手の上に自分の手を重ねた。
不思議に思って顔を上げると、優しく微笑んだままこう言うのだ。



「もう飲み干さなくていいんだよ」



私は涙が止まらなくなった。
席を立ってトイレに駆け込み、今までこんなことなかったのに水分を全て吐き出した。

一緒に思い出も感情も吐き出せたらいいのに。鉄朗との時間も、記憶も、私のエゴも。全部全部吐き出して流れてくれればいいのに。上手くいかないもんだ。


とめどなく溢れる涙に化粧が落ちてしまった。
慌てて裏へ駆け込み、化粧直しをするから別のキャストをつけてほしいと頼めば先程ゲームの話をしていた先輩が心配して駆け付けてきてくれた。



「大丈夫?何か嫌なこと言われたの?」
「違うんです。ちょっと吐きすぎて胃が痛くて生理的な涙が止まらなくって…」
「今日は帰りな?オーナーにも言っておくから」



帰りたくない。
鉄朗がいたあの家には、帰りたくない。
でもテツが待ってる。寂しそうに鉄朗の服を布団にして眠るテツが、待ってる。

大人しく帰ろうと着替えるためにロッカーへと向かえばボーイが今度はやってきて、私に紙切れを差し出した。



「何?これ」
「さっきのお客さんがナナシちゃんにって。連絡先だと思うから、気に入られたんじゃないかな」



不思議な人。でも嫌な気はしなかったし、あの人に対しては鉄朗はこんなんじゃなかったとか思うようなことは無かった。

もう一度ちゃんと話すべきなのかもしれない。何か、保証はないけれど私が前へ進む機会をあの人が持っている気がした。
急いで着替えて送迎の車に乗った瞬間、私は紙切れに書かれた手書きの番号を携帯に打ち込んですぐに掛けた。



「掛けて来ると思ってたよ、名無し」



すみません、方向を変えてもらってもいいですか。
送迎の運転手にそう伝えて私はマンションとは反対の方向へと向かった。


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