Drink it Down. | ナノ






"クロ"



研磨の声がする。

お前どこにいんだよ。
どっから話しかけてんだよ。



"クロ"



研磨、俺まだ帰りたくねぇかな。

挨拶は基本だろ。
何も言わずに俺が消えたら困る奴がいるんだよ。




"ねぇクロ。みんな待ってるよ"



わかってんだよそんなこと。
俺が帰るべきなのも、ここにいるべきではないってことも。


もう少しだけでいい。
もう少しだけでいいから。



"鉄朗?"



名無しと居させてくれよ。







「───鉄朗!」
「いてっ」



がつりと何かが足に当たった。

目が覚めて辺りを見渡すと隣に怒った顔をした名無しがいた。よかった、夢か。

どうやら電車の中で眠ってしまっていたらしく、もう降りる駅だというのに起きない俺の足に名無しが読んでいた本をぶつけたらしい。



「ほら、荷物持って!最寄りだから」
「へいへい、お嬢様」



今日は早起きして名無しと少し遠い場所にあるアウトレットモールに行ってきた。引くほど買い物をしたから荷物が多い。重たいものは基本俺が持って軽いものは名無しが持つ。
着いた駅に降りて改札を出ていつもの風景。もう慣れ親しんだ、名無しと一緒に住むマンションの近くの景色。

あと、何回ここを歩くことが出来るんだろうな。



「今日何食べる?」
「あー、サンマ?」
「また!?私もう飽きたよー…」



苦笑いする名無しは今日も可愛い。いや、今日は特別可愛い。なんてったってデートだからな。気合いの入った服装にメイク、これも俺とデートするために張り切ったものだと思うと心が暖かくなって頬が緩む。

今日もいっぱい写真を撮った。
俺と名無しの思い出を残すために。
帰って寝る前にまた名無しはプリンターを取り出して形に残し、アルバムに詰め込むのだろう。
その背中を見るのが日に日に寂しさを増していることに、本人は気付いているのだろうか。



「お揃いのパーカー着て、今度はどこ行こっか」



少しだけ頬を赤く染めてはにかむ俺の彼女。
世界一可愛い、俺だけの彼女。

もうちょっとだけ、なんて嘘だ。
本当はずっと名無しの傍にいたい。







晩飯を食ってソファーでテレビを見ながら名無しは楽しそうに今日の話をしている。今日のことだけじゃなくて、テツのこととか。これからの話とか。

元彼にプレゼントされて一度も一緒に使われることのなかったマグカップは捨てられて、今日新しく俺と使うために買ったペアのマグカップで名無しが淹れてくれたココアを飲みながら。



「ねぇ、鉄朗」
「んー?」
「あのね、好きだよ」



嘘偽りのない、眩しいぐらいの笑顔。
出来ることならずっとずっと眺めてたいような、名無しの笑顔。

突然の言葉に俺は驚いたけど、それは一瞬のことで抑えきれなかったニヤニヤが滲み出てしまった。



「俺も好き」
「ニヤけないでよ、気持ち悪い」
「ひでぇなー。名無しが可愛いから悪いんだろ?」
「何それ。私が悪いのー?」



意地悪な顔してそう言えば同じような顔して笑う彼女はこの数ヶ月でホント俺に似たなーと思う。良い意味でも悪い意味でもな。

重ねられた手に目線を落とすと薬指に輝く指輪。俺がこの間プレゼントしたもの。俺の女って証に心がむず痒くなる。幸せという言葉以外、浮かばねぇな。



「さて問題です。今日は何の日でしょう?」
「…は?今日?」
「そう。わかる?」



何かの記念日だっけか。いや、でも名無しが記念日とかいちいち覚えてらんないとかなんとかこの間言ってたしな。じゃあなんだ?誕生日?

すぐに思いつかずにどうしたものかと視線を泳がせふと気づく。キッチンのカウンターに置かれた小さな組み立て式のカレンダー、小さく書かれたハート。



「…バレンタイン?」



俺の答えはどうやら正解だったらしい。
にっこり笑った名無しは立ち上がってキッチンの棚からラッピングされた小さな箱を持ってきた。

赤い箱に白のリボン、ハッピーバレンタインと書かれたメッセージカードには手書きで鉄朗へと書かれていた。



「うわ、まじで?えっ、まじで?」
「まじです」
「えっ、手作り?」
「手作りです」



嬉しすぎて言葉にならない。
空いてる片手で顔を覆いながら幸せを噛み締めた。



「うわー…ありがとう」
「そんなに嬉しい?」
「食べんの勿体無いくれーにネ」
「そこは食べてよね!」



照れてるのを隠すためか、マグカップを口元に持って飲むふりをする名無し。あ、ダメだ可愛い。

開けるの勿体ねぇな。どうしよう。本気で嬉しい。俺めちゃくちゃ幸せだわ。



「名無し、好きだ」
「…うん。私も」



そう言って彼女の唇にキスを落とした。

目を開けるとそこに少し頬を赤く染めた名無しがいて、どこか安心した。

安心したんだけどな。



「なぁ、これ開けても────」



隣に座る名無しにそう尋ねた。

でも目の前に広がるのは真っ白な世界。一定のリズムを響かせる機械音と外から聞こえる誰かの足音。



「………は?」



混乱。
理解が追いつかないまま自分の状況と周りを見渡した。

水色の、病院でよく見かける患者用の服。
外と遮断するかのように締め切られたカーテン。
眩しい日差しが差し込む窓と、手首に付けられた点滴と心拍を測る機械の管。


俺、今名無しといたんじゃねぇの?



「黒尾さん、目が覚めましたか?」



外から声を掛けられ、返事が出来ずに固まっているとカーテンを開けて入ってきたのは看護師。

俺の様子に特に動じることもなく先生を呼んできますね、と脈拍だけ確認してまた出ていった。



「嘘だろ…?」



左手に持っていたはずのラッピングされた箱はなかった。名無しに選んでもらって、気に入って着ていた服もない。テツと名無しと俺の3人で写った写メがホーム画面のスマホも。

テツも、名無しも、いない。



なんで?

なんで今なんだよ。



「まだ…まだ挨拶してねぇだろ…!」



じゃあなって、せめて言いたかった。
ちゃんと最後にもっと好きだって言いたかった。
今日一緒に寝る約束もしてた。あのあと名無しが作ってくれたチョコ食って一緒に歯磨いて一緒にベッド入って、おやすみって言って。それから、それから────。



「クソッ…!」



自分の膝を拳で殴った。痛くも痒くもなかった。

悔しさと寂しさと、色んな感情が混ざりに混ざって腹立たしかった。


俺は俺がこの世界に生まれたことを初めて恨めしく思った。


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