Drink it Down. | ナノ






ぱしゃり。

機械音が鳴り響く。


いつか離れなければいけないのなら、その限られた時間を笑って過ごしてほしい。彼は私にそう言った。

それでも取り残され、離れ離れになったときに全てを無かったことにするぐらいなら。少しでも寂しさを紛らわせることが出来たならと、私の少しの悪足掻き。



「何してんの?」



リビングのテーブルに大きな機械と分厚い本。
寝起きの彼は私と機械がたてる音に目が覚めてしまったらしい。

今日も相変わらず寝癖は健在。
テツも同じように最早ふたりの寝室と化した私の部屋から欠伸をしながら出てきた。



「ネットで買ったのが届いたから、試しに使ってるの」
「…プリンター?」
「そう。写真を印刷してるの」



私の隣に座った鉄朗は仕上がったばかりの写真を一枚手に取って眺めている。

最近のプリンターはすごい。アプリさえ取ればスマホで撮った写メも自宅で印刷できるなんて。しかも仕上がり超綺麗。



「これとか覚えてる?」
「テツを拾った日だな。テツがなかなか撮らせてくんねーから名無しが3人で撮ってくれたんだっけか」
「よく覚えてるね。こっちは?」
「げっ…畳んだ洗濯物直せって言われてたのにそのままにした挙句その上で昼寝してしまった僕デス…」



しかもヨダレ垂れてるよ、と言えば焦って写真をガン見する鉄朗。嘘なんだけどね。

他にもたくさんある。私がどうしても食べたかったカフェのランチに行った時にご飯を撮るフリをして盗撮した鉄朗とか。
テツに振り向いてもらえず寂しそうにいじける鉄朗とか。まだ寝てるのをいいことに寝顔を収めるついでに一緒に撮ったやつとか。



「俺もやりたい」
「じゃあこのアプリ取って」

「このテツの写真、やばくね?」
「え!?何これ天使!」

「ちょっと、これ何?」
「あー!見んなってバカ!」
「すっぴんはダメって言ったじゃん!しかも化粧してるときなんてバカはアンタでしょ!」



ふたりではしゃぎながらお互いのフォルダにある写メをたくさん印刷した。予備のインクを使い切るぐらい。その間、僅か一時間。


私のせめてもの悪足掻き。写真という物として鉄朗といた時間を残しておくこと。思い出は時間とともに褪せてしまうけど、写真にしておけば後からひとりで見て鉄朗といた時間を思い出せる。
きっと写真を見るのもつらい時期は来ると思う。でも、何もなくて寂しくなるぐらいなら何か残して寂しくなった方がまだマシだと私は思った。

きっと鉄朗も同じ思いなんだろう。だからこうして写真を一枚一枚大切そうに見てるんだと思う。テツの写るものが多かったけど、それでも私の写真を印刷しては厳選して一枚だけハサミで切って携帯のクリアケースに挟み、いつでも見られるようにしていた。



「待ち受けがあるんだからいらないんじゃない?」
「バッカ、わかってねーな。味が違うんだよ味が。これだから素人は」
「アンタはなんなんだよ」



フォルダにある写真を全て印刷し終えて分厚い本──アルバムに挟んでいく。そこそこ分厚いアルバムも大半埋まってしまった。

少しある空白に物足りなさを感じて全てのページを満たしたい、なんて考えていたら鉄朗が急に勢いよく立ち上がった。



「よし、じゃあ今日はいっぱい写真撮るか!」
「えっ、どっか行くの?」
「決まってんだろ。デートだよデート」



してぇだろ?と聞いてくる鉄朗の顔はニヤリと笑っていた。私ももちろん、と返事をしながら同じような笑みを浮かべた。







昔、本当に昔。

幼かった私に近所で時々会う友達がいた。男の子だったんだけど、その子は一度大きな水族館に連れて行ってもらったことを自慢げに話していたのを覚えてる。

キラキラしていて普段から太陽みたいな子だった。
大きな水槽に何万もの魚。とてつもなく大きいのに薄っぺらい海の生き物。高く跳ね上がるイルカのショー。その話をする時はいつもよりもっとキラキラ輝いていて、私もいつかそんな大きな水族館に行きたいと思った。



「大人二枚ください」
「えっ、学生じゃないの」
「学生証がないから一般料金なんですぅー」



チケットカウンターで二人分を購入して入場ゲートに向かう。大きな建物の壁には石で魚が描かれていた。

家族連れやカップル、平日なのにたくさんの人で賑わっていた。すごい。水族館ってこんなにたくさん人が来るんだ。なんてほかの人からすればよくわからないことを考えていた。



「私、水族館初めて」
「はっ!?場所も指定してくるからてっきり行ったことあんのかと…」
「ううん。お母さんが毎日仕事だったから、お出かけとかしたことないの」



私の言葉にぱちぱちと瞬きを繰り返した後、どこか嬉しそうにニヤける顔を片手で隠しながら空いてる方の手で私の片手を繋ぐ鉄朗。

なんか変な事言ったかな、と横顔を見つめてるとちらりと横目に見られた。そのまま前に視線を戻して通路を歩き続けるから、モヤモヤしながら入口を目指した。



「…水族館、初めてなんだよな」
「うん。さっき言ったじゃん」
「俺が、初めて一緒に行った人になるわけだよな」



なんだ、そんなことって言おうと思ったけど気持ちはわからなくもない。好きな人の初めてを自分と経験出来るって嬉しいことだもんね。

なんだかそんな風に反応してもらえたのも嬉しくてつい私も綻んじゃう。と、同時に鉄朗が手を引いたので引っ張られるまま前を歩く人の間を抜けた。



海の中、どこまでも青。

無数の魚と遊ぶように浮かぶ気泡。
大きさも形も色も違う魚たちが踊るかのように自由に水槽を泳いでいた。


ドーム状に作られた水槽の真下を歩けるようになっているその通路のど真ん中に立って左から右へ180度見渡した。



「…きれい、」



ゆらゆら揺れる水面の光がガラス越しに私の目に届く。眩しくて、でも目はずっと瞬きも忘れるほどに開いたまま集中して水槽を見た。

鉄朗は満足そうに腰に手を当てて鼻を鳴らす。なんでこうも自分のことじゃないのに得意げになれる人が多いのだろう。でもわかる。これはどうだ!ってなるの、わかる。



「こっちはペンギンもいるぞ」
「ペンギンって泳ぐの?」
「泳ぐわ!おっ、アシカだな」
「うわー…ゴロゴロしてる!可愛い!」



たくさんの水槽、たくさんの海の生き物を見て回った。途中休憩のために入ったカフェではクラゲソーダとアザラシオレで悩んで鉄朗と半分こした。

大きなクラゲも見た。イルカのショーも。
薄いのに大きくて何を考えているのかわからない魚の正体はマンボウだった。



「お兄さんとお姉さん、よかったらお写真どうですか?」
「おっ、撮ります」
「わー!マンボウの帽子ある!鉄朗、被ってよ」
「はぁ!?んなもん自分で被れよ!」
「いーじゃん。私はペンギン〜」
「自分だけ可愛いの選びやがって…」



撮りますよー!というスタッフのお姉さんの掛け声で水槽をバックにポーズを決める。さりげなく私の腰に手を回して体を寄せる鉄朗に少しドキッとしたのは内緒。

少しお高めだけど綺麗に印刷されてパネルに入れられた写真を買って満足げに眺めてるとよかったな、と頭をポンポン撫でられた。



「楽しいか?」
「うん!超楽しい!」



鉄朗と来れたことが、何より嬉しい。
言葉にはしなかったけど私は本当に幸せな時間を過ごした。

水族館も終盤、外はもう暗くて寂しい気持ちになった。そんなとき、鉄朗が何か企んでるような笑みを浮かべて私の腕を引き始め、ここの水族館の目玉でもある巨大水槽の前に連れ戻された。



「どうかした?…あっ、ジンベイザメをもう1回見たかったとか?」
「あー、いや。そうじゃないんだけどよ」
「? 何かあった?」



携帯を取り出してあともうちょい…と呟いた鉄朗は私の質問に答えてくれなかった。
よくわからないまま備え付けのベンチに座って待っていると少しずつ人が集まってきた。何かイベントでもあるのだろうか。こんな閉館間際に?
パンフレットを取らずに回っていたことを少し後悔した。それでも何かあるというワクワク感で気にはならなかった。



「…名無し、」
「何?」
「俺、名無しのことすっげー好き」



突然横に座る鉄朗が私をまっすぐ見ながらそう言うものだから驚いて目を見開いてしまった。瞬間、顔に熱が集まったのがわかる。

目を逸らして私も、と返事をしようとしたけれど周りの人たちが歓声をあげ始めたので何事かと思って水槽に目をやる。


先程まで青かった世界が、キラキラと色んな輝きを放ち始めた。
水槽の中にはいなかった魚や人、そして壮大な音楽。



「プロジェクションマッピング?」
「そう。さっきすれ違った人の話が聞こえて慌てて戻ってきたんだわ」



間に合ってよかったーと安心したように笑う鉄朗。流れる映像の光が反射して鉄朗の横顔もとても綺麗だった。

思わず見惚れているとばちりと目が合い、恥ずかしくて前を向こうとしたとき。



「…名無し、俺はどこへ行っても必ずお前のことを一番愛してるからな」
「え…?」
「俺が元に戻ったとしても、心は一緒だってこと。忘れんなよ」



クサいセリフ。それでも今の私の心を満たすには十分すぎる言葉だった。

嬉しくて泣きそうになるのを堪えていたら、立ち上がった鉄朗がベンチに座る私の正面に跪いてポケットから何かを取り出す。嘘でしょ?



「結婚とかはできねぇけど…」
「ちょっ、ちょっと待って、鉄朗?えっ?」
「ずっと一緒にいるから、俺だけのもんになってくれ」



差し出されたのは小さな箱。
そんなまさか。

信じられなくて口元を手で覆っていると開かれるその箱からは、シンプルながら控えめの小さな黒い石のついたリングが入っていた。



「なんで黒だって思ってんだろ?」
「そんなの聞かなくてもわかるよ…っ」



"黒尾くん"

私が最初に呼んだ彼の名前。そして彼の特徴的な色。鉄朗の色。

堪えきれずに流れる涙を鉄朗がいつものように指で優しく拭ってくれる。もうそれだけで涙が止まらないのに、鉄朗はリングを取り出して私の右手の薬指に付けた。



「本当は左に付けてぇけど。ま、婚約ってこったな!」
「うん…うんっ!いつか本当に迎えに来てくれるの、待ってる!」
「言うねぇ。覚悟しとけよ?」



周りの人たちも幸せそうに寄り添って眩しい世界に浸っている。こんなに幸せな時間を、空間を、私はこれ以上の幸せを知らない。



「はー、バイト頑張ってよかったわー」



安心して隣に座り直し、私の手に自分の手を重ねて笑う鉄朗は世界で一番かっこいいと思った。

重ねられた手の薬指に私を彷彿させるであろう色の石が付いているお揃いのリングがいつの間にか嵌められていて、もうこのまま時間が止まればいいのにって本気で思った。


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