Drink it Down. | ナノ






「ナナシちゃん、ますます綺麗になってくね」



ブランデーのロックを煽るもう既に顔の赤い客は危うい呂律でそう言った。

私は煙草に火を付けて煙を吐き出し、そう?と艶やかに唇に弧を描かせた。客は私に見惚れそうになりつつも満足げに笑ってそうだよ、と呟く。



「恋でもしてるの?」
「んー、どうかな」
「ナナシちゃんに想われるなんて、相手の人幸せだなぁ」



アンタじゃないのに、なんで自分のことのように幸せそうな顔してんだ。なんて心の中で突っ込みながら私に想われてる彼の顔を思い浮かべる。

自然と零れた笑みに客は若いっていいねぇと笑うけど、私は恋なんてしてないんですけどけと誤魔化した。




恋じゃない。
これは愛情深い別の何か。



「ただいま」
「おー、おかえり」



相変わらず遅い帰りにも関わらず出迎えてくれた彼は恐らくソファーで寝てたのだろう。寝起きの顔、でも寝癖のない髪の毛は寝てませんよベッドでは、と言いたげで笑いそうになるのを堪えた。

私がカバンを置いて上着を脱ぎ、洗面所で化粧を落として戻ってくると大きな欠伸をする黒尾くん。ぶっさいくな顔。これは笑うのを我慢することは出来なかったため、何よとじっとり見られてしまった。



「…ぶさいく」
「何?イケメン?知ってますケドね」
「えー、店に最近新しく入ったボーイの子の方がイケメンじゃないかな」
「は?何処の馬の骨の男よ!」



ココアを淹れながら換気扇の下で煙草に火を付けるとオネエ言葉になりながらも本当に怒ってる黒尾くんが素早くキッチンカウンターに移動し、身を乗り出して唇を尖らせた。



「あら、ヤキモチかしら?」
「……悪いかよ」
「ふふっ。世間一般でイケメンなのはボーイかもだけど、私は黒尾くんの顔の方が好きかな」
「顔だけ?」
「…全部」



ぱっと嬉しそうに笑う彼の頭に、これまた嬉しそうに動く耳が見えた気がした。

私が煙草を吸ってる間、こうしていつもカウンターを挟んで黒尾くんは話をしてくれる。構ってほしいのが大前提なんだろうけど、少しでも私との時間を共有しようとしてくれてる姿勢にささやかな幸せを感じるようになった。



「黒尾くんもココア飲む?」
「…黒尾くんじゃない」
「はいはい。鉄朗のも淹れてあげよっか?」
「お願いシマス」



満足そうな笑顔。あぁ、好きだなぁって思う。私も今最高に幸せな顔してるんだろうな。
思わず溢れる笑みを隠すように最後に一吸い、煙を鉄朗に向かって吹きかけた。

文句を言われたけど私の耳には届かず(届いてたけど)二人分のココアを持ってソファーに腰掛ける。隣に来たテツを抱えて鉄朗も座り、今日あったことをどちらからともなく話して笑って時に喧嘩して。


なんだこの満たされた気持ち。
やっぱりこれは恋なんてものでは済まない。



「俺がコーチしてる小学生チームさ、もう170cmもある奴がいんの」
「でかっ」
「このままじゃ俺もう抜かされちゃう!」
「鉄朗は充分でしょ」



そうそう、鉄朗が家出したときに発覚したコーチとしてのバイト。あれは毎日公園でバレーを教えてた子の両親が偶然バレーチームを運営してる人だったらしく、これまた偶然子供と練習してる鉄朗を見掛け、短期でもいいから雇わせてくれと声を掛けたらしい。

そんなに鉄朗ってすごいのかな、なんて思ったときに私はまだ一度も鉄朗がバレーをしているところを見たことがないことに気が付いた。



「名無しー?おーい。聞いてますかー?」
「鉄朗、私大変なことに気が付いちゃった」
「え、何その真剣な顔。どしたの」
「私、まだ鉄朗がバレーしてるとこ見たことない」



深刻そうな顔でそう言うと目を見開いた鉄朗だったけど、それはほんの一瞬だけですぐに大笑いされてしまった。

わりと真剣なことなんですけど。むかついて顔を横に逸らすと鉄朗は笑いを抑えようとヒーヒー言いながら私の肩に体重を掛けてきた。



「…そんなに笑うこと?」
「いや、そこまで深刻な顔しなくても…ふっ…この世の終わりみてぇな顔して…ぶほっ…」
「あー!私寝る!もう寝る!おやすみー!」
「わかったからわかったから!拗ねるなよ!」



悪かったって!と目に涙をうっすら溜めながら部屋に向かおうと立ち上がった私を止める鉄朗は口が歪んでてまた笑いだしそう。むかつく。

むかつくけどまだ一緒にいたくて大人しく座ると頭を撫でられた。それもむかつく。このクソガキ。



「一丁前に頭なんか撫でやがってこのクソガキーって顔してんな」
「なんでわかったの」
「まじかよ」



お互いびっくりして顔を見合わせ、思わず吹き出してしまった。

鉄朗も先程とは違って静かに笑うと私の肩を抱き寄せて頭に自分の頭を乗せた。



「…いつか、見てほしいとは思ってんだけどよ」
「言いたいことはわかるよ」
「…帰りてーけど、帰りたくねーな」



ぼそりと呟かれた言葉の意味だってわかる。
私と一緒にいたい。でも彼には家も友達も学校も、バレーもあるのだ。戻らなければいけない場所が、私の元から離れなければいけない場所がある。

鉄朗がいなくなった世界を想像して寂しくなった。胸が締め付けられてるかのように苦しいし痛い。私だって出来ることなら一緒にいてほしい。出来ることなら一緒についていきたい。それが無理なことも、わかってる。



「…名無し」



名前を呼ぶと同時に鉄朗の大きな掌が私の頬を包み、指先で耳元をくしゃりと撫でられる。

真剣な顔。私が寂しくなってるのをわかって安心させようとしてくれてる顔、だ。



「今は目の前にいる俺のことを見てくれ」
「…うん。鉄朗、好きだよ」
「俺も、違う世界にいてもどこにいたって名無しのことずっと好きでいる自信あるわ」



何それ、どこにも行かないでよ。
なんて言えるわけがなくて。

笑った顔はきっと接客してるときでさえ見せないような、見せられないような歪んだ笑顔だったと思う。

それでも柔らかく笑って顔を寄せる鉄朗はどこまでも優しい人だと思いながら私は目を閉じて何度も降り注ぐ唇の雨を何度も受け入れた。


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