Drink it Down. | ナノ






私の記憶の中で大切な人はいつもどこか儚くて切ない、寂しそうな顔をしていた。

口元は笑っていて、でもどこか寂しそうな母の表情。今ならわかる。"会いたくても会えない距離"というもどかしさ。

だから私は君を拒んだ。
君はわからないかもしれないけど、私なりに考えて出した答えのつもりだった。



私はあんな顔したくないし、させたくないの。








「ただいま」



外はもうすっかり明るくなってる。携帯を開くと午前7時。最近帰ってくる時間はだいたいこんな感じ。

私の声に反応したテツがソファーから降りて出迎えてくれる。ゴロゴロと鳴る喉はいつものことながら元気そうだ。



「今ご飯入れるからね」



帰り道、コンビニで降ろしてもらってエサを買ってきた。袋から取り出して開封し、いつもの場所に置いてあるエサ入れにカリカリのご飯を入れるとテツはすぐ駆けつけてハグハグと食べ始める。



テツを見てると思い出す、あの日の背中。



"迷惑掛けてすんませんした。…じゃ"



「…迷惑ってなんだよクソガキー!!」



思わず叫んだ私にびっくりしたテツは尻尾を逆立てて脱衣所に隠れてしまった。

黒尾くんが出ていってからもうすぐ1ヶ月が経とうとしてる。帰ってくる様子もなければ近辺で見かけたこともない。もう二度と会えないのかも。

もしかしたら元の世界に帰れたのかな。
こちらの世界の春高は終わったけど、向こうはどうだったのかな。間に合ったかな。


元気に、してるのかな。



私によく見せてくれた無邪気な笑顔が脳裏に浮かぶ。泣きそうになるのを堪えてもう過ぎたことを後悔しても仕方ないと、彼が使っていた部屋を片付ける決意を固めた。

黒尾くんが出ていってから一度も踏み入れてないこの部屋。ドアは閉めたまま、あの日のまま変わることは無い。掃除のときに一度入ってそれぐらい自分でやると断られ、本当に数ヶ月入ってない。どうなってるのだろうと、好奇心と少しの恐怖心、あと謎の緊張を振り切ってドアノブに手を当てた。



「…お邪魔します」



誰もいないし、返事がなくて当たり前なのに寂しく感じた。

電気を付けると少しだけ残された生活感。
無造作に置かれたベッドの上の毛布。
脱いだまんまのスウェット。

あぁ、ここに彼は確かにいたんだと思うと先程我慢した涙が込み上げてくる。



「年頃の男の子が使った部屋…きっと何かある!ね、テツ?」



気を紛らわせようと部屋を探ることにした私はするりと入ってきたテツを抱き抱えて脱ぎっぱなしのスウェットをベッドに上げた。

使い込まれたバレーボールに時々買ってくれと頼まれて購入していたバレーの雑誌。

服を片付けるクローゼットは少し開いていて、ここの服も処分しなければ…なんて考えながら全開にし、中に入っているカラーボックスを開けた。



「…これ、何?」



怪しい茶封筒が何通か。
カラーボックスの手前側に綺麗に片付けられていた。

もしかして元彼の…?まさかそんなはずは、と速くなる鼓動を抑えながら意を決して一通だけ手に取り、中身を確認した。



その中に入ってるものを目にした途端、私の頭は理解に追いつけなかった。

自然と流れる涙も今は止められる気がしない。



「…何やってんの、あのバカ」



何枚も入ってるお札と、手書きで記されたお金の詳細。
きっと教えてもらわなくてもわかる。このお金がどう使われる予定だったのかなんてこと。


下の方に記載された住所を見て私はカバンの中にしまったままの携帯を取り出してマップに打ち込んだ。



「ほんと、あのガキ…バカじゃないの」



謝らないと。
私、黒尾くんに伝えなきゃいけないことがある。



脱いだところの上着を羽織ってカバンを持ち直し、玄関へと駆け出す。



「テツ、待ってて。黒尾くん連れ戻してくる」



テツは賢く玄関で私を見送っていた。





マンションを出て少し離れた大通りに出るとタクシーが目の前に来たので止めて行き先を告げる。
ここから30分ほどで着くらしい。

車内ではドキドキしていた。会ったらなんて言おう、まだこっちの世界にいるかな、会うのを拒まれたらどうしよう。
色々な考えが頭を巡っていたけど最後には必ず会いたいと思っていた。


会いたい。
黒尾くんに会いたい。


迷惑なんかじゃない。嫌なんかじゃない。
本当は、本当は私も言いたかった。





「…好き、」





タクシーを降りて目の前にそびえ立つのは小さな体育館の隣の小さな事務所。

その建物の前で見覚えのある背中を見つけた途端、私は名前を呼ぶより謝るより先に想いを口に出してしまっていた。



「…えっ、はっ?」



私の声が聞こえたのだろう、勢いよく振り向いた彼は少し前と変わらない私の知ってる黒尾くんで。

目を見開いて私を見下ろすこの表情、あぁ久しぶりに見た、会いたかったと思うとまた泣きそうになる。



「名無しさん!?なんでここにいんだよ…」
「これ、見つけた」



カラーボックスから見つけてしまった茶封筒、それは黒尾くんの給料明細とお給料。

辿り着いたそこは小学生のバレーチームの講師が勤める事務所で、黒尾くんは恐らくここでいつからかはわからないけれど雇われて働いていたんだと思う。



「あー、見つかったか…」
「どういうつもり」
「えっ」
「どういうつもりよ!何週間も連絡も無しに出ていって知らないところでバイトして、何のつもりよこのクソガキ!」
「なっ…迷惑っつったのは名無しさんだろ!?」



まだ言うかこの野郎。
私は零れた涙を手の甲でグイッと拭うと黒尾くんの胸ぐらに掴みかかった。

さすがにこんなことされると思ってなかった彼はギョッとして何も言えなくなってしまっている。好都合だ。



「迷惑ってのはね、アンタがこの世界の人間じゃないから!あっちに戻ったとき残された私はどうなるの?生きてるのに、会いたいのに会えないなんて絶対嫌なの!だから…っ、だから好きになんてならないでほしかったのに…!」



私は知っている。会いたいのに会えない人のつらさを。小さい頃からずっと見てきたから。
そんなつらい思いするぐらいなら、抑えてた方がマシだということも。わかってても好きになってしまえばそんなこと気にしてる余裕がなくなってしまうことも。


一気に捲し立てるように話すと黒尾くんは私の手を包み込み、片手で背中をぽんぽんと叩いた。

掴んでいた手を離して止まることのない涙をもう一度手の甲で拭うと目線を合わせるように屈んだ黒尾くんが指で拭ってふっと笑った。



「ならないでほしかったのに?」
「ならないでほしかったのに…私も、好きなのに、言いたくなかったのに…!」



探すつもりもなかったのに、会うつもりもなかったのに、と可愛げのないことばかりを言いながら俯いてしまった私はもう黒尾くんの顔を見れなかった。

私も黒尾くんが好き。でも大人として、保護者の代わりとして、責任感のある行動を取らないとこの子のためにならない。そう思って絶対に言わないしこのまま静かに終わりが訪れて、大袈裟かもしれないけど過去の話として墓場まで持って行ければって。

黙り始めた私の腕を引いて黒尾くんが一歩近寄る。私は俯いたまま拒もうとしたけど、力を込めて体を引き寄せられてしまった。



「くろ、」
「好きだ」



抱き寄せられて耳より少し上から聞こえてきたのは大晦日に言われた言葉。

これだけ可愛げのないことをタラタラと述べてダメな大人だと思われても仕方のないようなことばっかりして、一度だけだとしても君を拒むようなこともしたのに。どうして。



「なんでまだそんなこと言えるの…っ」
「好きなんだよ、名無し。何されても何言われても、それでも好きなんだって」



言い聞かせるように優しい声色でそう話す黒尾くんはたぶん笑ってる。あの柔らかい笑顔で、私を本当に心の底から愛しいと感じてくれてる。

嬉しくて幸せで暖かくて、でもやっぱり切ない。


結ばれたとしても、いずれ私たちは離れなければいけない。



「俺がこっちにいる間は極力ずっと一緒にいるだろ」
「でもずーっと一緒は無理じゃん」
「何?名無しチャンは寂しがり屋さんなのカナ?」
「うん。黒尾くん限定で」



少し体を離して意地悪な笑みを浮かべて聞いてくるから、私も恥ずかしいけど素直に爆弾を落としてやった。

すると予想を遥かに上回るほど顔を真っ赤に染める黒尾くん。耳まで赤いし首もちょっと赤い。私が今度は意地悪に笑う番。



「アレアレ?黒尾くん、どうしたのカナー?」
「くっ…これは一本取られたな」



まだ朝の8時ぐらい。もうすぐ2月。
息は白いし風は冷たい。

でも心は暖かくて心地良い。



「…黒尾くんが、好き」
「俺も」
「一緒に帰ろ?」
「テツにも会いてぇしな」
「たぶんテツは黒尾くんのこと忘れてるよ」
「なっ!?テツあの野郎!!」



事務所に一言添えて出てきた黒尾くんと並んで歩く。タクシーを探さないと。
大通りに出る道を黒尾くんに教えてもらいながら歩くこの時間、とてもとても幸せだ。

もう、世界とか年齢とか過去にしようとか、どうでもいい。私は彼と一緒にいたい。少しの間だけでもいい。彼の特別な人として共に過ごしたいと思った。



「…名無し、こっち」
「えっ」



道路側を歩こうとした私の手を引いて内側に導くと同時に繋がれた手。
驚いて黒尾くんを見上げると幸せそうに笑っていた。



「手、あったけぇのな」
「そりゃ仕事終わりに誰かさん探しに出たから眠たいよ」
「それはそれは、お疲れさん」
「…てつろーも、お疲れ様」



照れくさくて俯いたままそう呟く。
ちらりと横目に黒尾くんを見遣るとだらしない口元を隠すように空いてる片手で顔を覆っている。それでも隠しきれてない肌が赤いのはきっと寒さのせいとかではないんだろうな、なんて。


一緒に帰って、一緒にただいまとおかえりを言って、いつものソファーで寄り添って、他愛のない話をしながら笑い合いたい。

黒尾くんも、同じこと考えてそうな顔をしてて思わず笑った私に不貞腐れた顔をするまであともう少し。


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