Drink it Down. | ナノ






私の母は、私が物心ついたときには夜の世界の人だった。

どんなお客さんにもキャストにも優しくいつでも綺麗でいて凛とした素敵な女性、それが私の母。

父は一度も会ったことはなかった。
父の話をすると母はいつも寂しそうな顔をするから聞かないようにしていた。

一度だけ、父の話を母から聞いたことがある。

それは母の誕生日、お店で予想以上にお酒を頂いた母が珍しく泥酔していたときのこと。



「名無しー、これがパパよ」



心底嬉しそうに、愛しそうに見せてきたのは父と思わしき人物と一緒に幸せそうに笑う母の写真。

言われてみればどことなく私に似ていた。目元とか。笑ったときに浮かび上がるえくぼとか。



「パパにはね、もう会えないの。名無しが生まれて1年後ぐらいかしら。会えなくなったの」



どこまでも優しい人、そう呟いた母の瞳は潤んでいて、でも口元は笑っていて、私にはどういう感情なのか今でもわからない。









「ナナシちゃん、悩みでもあるの?」



半年ぶりぐらいに来店してくれた客の席で気が付くとぼーっとしていたらしい。

誤魔化すように笑って焼酎の水割りをぐいっと一気に飲み干した。



「ちょっと、私生活で困ったことがありまして…」
「おっちゃんでよかったら話聞くよ?」
「いえ、大丈夫ですよ。高山さんこそ、最近部下の方とはどうですか?」
「聞いてよー!やっぱ若い子難しいよ!」



上手く話を逸らして愚痴を吐き始めた客の相手をする。でも頭には入ってこなかった。




悩んでるってほどでもない。いや、無意識のうちに悩んでるのかもしれない。


私の悩みなんてひとつ、ひとりしかいないのだけど。



「…黒尾くん?」



上がり時間に外に出れば店が入ってるビルの前でしゃがみこんで携帯をいじる黒尾くんがいた。

まさかいるなんてこと、今まで無かったからびっくりしてカバンを落としそうになった。



「ナナシさんの知り合い?」
「あ、はい…すみません、送迎大丈夫です」
「もしかして彼氏?」
「いえ、違います。従兄弟です」



否定した私に納得したボーイがお疲れ様、と手を振って店に戻ったのを確認してから黒尾くんに近付くと不服そうな顔をして立ち上がった。



「従兄弟ってなんだよ」
「親の兄弟の子供のことだよ」
「んなことわかってんだよ」
「でも彼氏でもないでしょ?」



にっこり笑ってそう言うと黒尾くんも諦めたのか、ため息をついて家の方向に歩き出した。

ちょっと待って。マンションまでなかなかの距離あるのに歩くつもりなの。



「タクシー止めるから待って」



たまたま通りがかったタクシーを止めて乗り込み、マンションの場所を告げる。

車内は静かで、一言も話さなかった。


大晦日のあの日から私は黒尾くんをはぐらかしてばかりだ。甘えてきてもダメ、と断って離れたり毎回同伴を組んで早い時間から遅くまで働いたり。それもほぼ毎日のように。帰る頃には黒尾くんはランニングに行ってるし、その間に寝室にこもって寝てしまえば顔を合わせることはない。

一緒にいる時間を減らせば、黒尾くんもいつかは冷めてしまって何もなくなるだろう。そう思ってた。



「なぁ」



マンションに着いてタクシーから降り、オートロックを開けたときに呼び止められた。

振り返るととても不機嫌な顔をした彼が私を見下ろしていた。



「どうかした?」
「どうかしたじゃなくてよ、最近俺のこと避けてんだろ」
「…避けてないよ」



私の言葉を最後に沈黙が訪れた。
目を逸らすことなくじっと彼を見てるとすでに寄せられていた眉間の皺がさらに深まった。

私に近寄って目線を合わせるように上半身を屈め、逃げないようにと肩を掴まれる。…少し怖い。



「…忘れようとしてんのか」
「そんなことないよ」
「じゃあなんで家でも会わねぇようにして連絡もほとんど無視すんだよ」
「たまたまじゃない?ほら、忙しいの最近」



またにっこり笑ってそう言う私にイラッとしたのだろう。肩を掴む手に力が少しだけ入ったのがわかった。



「そんなことされても俺の気持ちは変わりませんけど?」
「…そう、それは残念」
「…そんなに俺が嫌?」
「なんでそうなるの」
「避けるぐらい嫌ってことだろ」
「だから避けてないってば」



押し問答を繰り返して睨み合いになる。ここまで何度も同じことを言われたり執拗に質問されると私も流石にイライラする。



「嫌なんだったらハッキリ言えよ」
「嫌なんて言ってないじゃん」
「じゃあなんなんだよ」
「別に何も無いってば」
「何も無かったらそんな風にならねぇだろ!」
「うるさいなぁ!黒尾くんにはわかんないよ!」



部屋に着く頃には夜中なのに近所迷惑を気にする余裕もないほど大声で言い合っていた。

部屋に入ってもなお続く口喧嘩にむかついてカバンをソファーに投げれば空気を読んだテツが開け放したままの黒尾くんの部屋に入ってく。



「別に仕事しようがしまいが私の勝手でしょ!?黒尾くんにどやかく言われる筋合いない!」
「別に仕事行くなって言ってんじゃねーよ!避けてんのかなんなんだか知らねぇけどなんで最近俺と顔合わせてくんねーのって聞いてんの!」
「だーかーら!たまたまだって言ってるじゃん!」
「俺が名無しさんのこと好きだって言ってから様子おかしいだろ!振るならハッキリ振ればいいだろ!」



お互い座ることもなくリビングの入り口で立ち尽くして睨み合う。もう止める理性もなくひたすら思ったこと思ってもないことを投げ付ける無謀な喧嘩になりつつあった。

気付いてたのに。これ以上言うのはダメだって。



「じゃあこの際ハッキリ言わせてもらうけど迷惑なの!この世界で身を寄せられる場所が私しかないのはわかるけど、好きだなんて迷惑なの!自分の立場をわきまえなさいよ!」



言ってからハッとした。
こんなこと言うつもりじゃなかった。

ちゃんと順を追って話すつもりで、その準備が欲しくて逃げてただけだった。

でもそれが今の黒尾くんに伝わるはずもなく、彼を見上げると傷付いた顔をして何も言えなくなっていた。



「…そう、かよ」



違う、違うんだよ。
そう言いたいはずなのに声は出ない。

力が抜けた黒尾くんはするりと私の横を抜けると玄関へと向かっていった。



「どこ行くつもり?」
「…名無しさんの気持ち聞けてよかったわ」
「ちょっ…黒尾くん!」



「迷惑掛けてすんませんした。…じゃ、」



振り返ることなく静かに外へと出ていってしまった。

追いかけなきゃ、そう思うのに体は動いてくれない。力は抜けきって気がつくと床にぺたりと座り込んでしまっていた。



「…嘘でしょ?」



私の言葉に返事をする人はいなかった。





それからしばらくして、黒尾くんは帰ってこなくなったし探しても見つかることなく私は元の生活を送ることになる。


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