Drink it Down. | ナノ






冬の匂い。

冷たくて寂しくて、でもどこかはにかんでしまいそうになるような、柔らかい冬の匂い。


ぬくぬくと温まった布団が気持ちいい。覚醒しつつある意識の中で部屋の外から物音が聞こえて目を開けた。
時刻は午前7時。元彼との一件からさらに1ヶ月ほどが経ったけど、本当に今度こそ何も無かった。

仕事場に理由を話して来客出勤以外はほとんど休んでいた私はすっかり健康的な生活リズムを身に付けてしまっていてこのままだと仕事に戻れないな、と小さくため息をついた。



「ちょっ…静かにしろって暴れんな!」



小声だけど静かな部屋ではしっかり聞き取れる黒尾くんの声。誰と話してるんだろう。

もぞもぞとベッドから降りてリビングに向かうと変な姿勢のまま片手にタオルを持つ黒尾くんが硬直して私を見た。



「ゲッ…オハヨウゴザイマス」
「…なに?なんでそんな片言なの?」
「いや、これは違うんですよ本当にその理由がありまして…」



私の目の前まで来て両手を前に突き出し、訳の分からない弁解をしてくる黒尾くんはとても不審で思わず眉間に皺を寄せて見上げた。

なんのこと?と聞こうとしたとき、ソファーから変な音が聞こえた。いや、音というより声かな。
その声に再度硬直した黒尾くんを無視してソファーを後ろから覗くと、私よりも早い呼吸を繰り返す黒くて小さな物体がいた。



「…ねこ?」



つん、と人差し指でその黒い物体をつつけば私に気が付いた子猫が顔を上げる。

猫ってビー玉みたいな大きなおめめで可愛らしく上がった口角にぴよぴよと動く長いヒゲ、なイメージがあったんだけど。
この子はどうやら違うらしい。



「目付き悪っ。愛想無さすぎっ。何この子、こんな小さいのにもうこんなやさぐれてんの?」
「なっ!?可愛いだろーが!」
「可愛いけど可愛くない」



正面に回り込んでしゃがみこみ、ソファーの隅っこで丸まって私を見上げてくるツリ目で少し目が細い愛想のない子猫を再びつついてみる。

するとあろうことか貶しているというのに私の人差し指に顔を擦り付けて喉をゴロゴロと鳴らし始めたのだ。
猫が喉を鳴らすのってなんでだっけ?まぁいいや。この様子からだと気に入られたんだと思う。



「で?なんでうちに猫がいるのかな?」



ニコッと笑って黒尾くんを見上げれば彼はバツが悪そうに頬を掻いて目を泳がせた。







「外傷は少し大きいものですが、化膿する可能性は低いですね。先ほど消毒したときと同じ薬液を処方しておきますので、様子を見ながら1日1回幹部に塗ってあげてください」



医師はそう言うと優しい笑顔を浮かべてお大事に、と子猫を撫でた。
ありがとうございますと頭を下げて子猫を小さなカゴに入れて待合室へと向かう。

隣で黒尾くんはほっとした表情を浮かべて子猫を見遣る。



「よかったなぁチビ助。最初見たときすげぇ焦ったけど大したことないんだとよ」
「大袈裟なんだよ黒尾くんは。でもよかった、黒尾くんが助けなかったらどうなってたかわかんなかったんだよね」



あのあと弁解の余地として床に正座させて理由を話させたところ、どうやら早朝の走り込みに近くの堤防を寄ったときに最近渡ってきた大きな鳥につつかれていたらしい。
最初はゴミを漁ってると思っていた黒尾くんだったけど、ゴミが僅かに動いたのを見て子猫だと気付き、慌てて止めに入ったんだって。
そんなとこでもお人好しを発揮させるのね、なんて思ったけどその言葉は心の中に閉じ込めておくことにした。



「で、手当てしたのはいいけどこの子をどうするかだよね」
「それなんだけど…えっと、色々調べまして…」



会計と処方された薬を受け取って家に帰る道中、黒尾くんは子猫を飼うために調べた知識をひたすら真剣に述べていた。

例えば去勢あるいは避妊する手術費、一部の市では補助金を受けることが出来るとか。
エサはこのショップが安くて栄養バランスも良いとか、部屋の壁紙を引っ掻く対策とか。

色々話してるけど、私は目も合わせずふーん、へーと軽く聞き流してて、気が付くとマンションに到着。



「で、子猫の今の時期は…」
「うん、だからどうしたいの」
「うっ…」
「そんな遠回しに話さなくても言えばいいじゃん、飼いたいって」



やっとのことで目を合わした私の言葉に怯んだらしく、彼にも耳が生えてるように見える。しゅんってしてる。面白いけど笑っちゃダメ、真剣なお話なんだから。

オートロックを開けてエレベーターに乗り、部屋の前で止まって玄関を開けて部屋に上がって。
黒尾くんはずっと黙ってて、今朝見たバツの悪そうな顔をしていた。



「生き物を飼うことってどれだけ責任が問われることか、もうわかるよね。高校生だもん」
「それはわかってるけどよ…」
「そりゃあ恐らく1匹でそこにいて虐められてたんなら、言葉は悪いけど親猫に捨てられた可能性が高いよ。それにまたこうなったらって思うと気が気じゃないし、死んじゃったら後悔しちゃう。そういうことで飼いたいって思ってるんでしょ?」



私の言葉に同意するべく縦に首をぶんぶんと頷かせ、ソファーに座って膝にカゴを置いた私の前に素早く正座をし始めた黒尾くん。

真っ直ぐに私の目を見つめてくる彼の瞳は小さいのにキラキラしている。あ、今のはちょっと失礼かも。



「でもね、この子もそういう運命だったんだよ。これからこの子はひとりで強くなるために生きていかなきゃいけない。このままじゃ弱いままなんだよ、これもわかるよね?」
「わからねぇ」
「…はい?」



真っ直ぐキリッと私を見据えてはっきりそう言い切った黒尾くんの言葉に思わず間抜けな声が出た。

カゴの中で子猫はスヤスヤ眠っている呼吸の音が聞こえてくる。



「運命かもしんねーけど、俺だってこの世界来てひとりで生きてく、どうにかなる運命だったかもしんねーじゃん」
「……」
「でも名無しさんが拾ってくれて、こんないきなり違う世界から来ましたなんて言う俺のこと信じてワガママまで聞いてもらってこうして生きてるんだよ」



きゅっと口を固く結んだ。
まさかこんなこと言われるなんて思わなかった。



「こいつも、本当ならひとりで強く生きてくべきかもしれない。けど、俺はこいつのこと最後までちゃんと親猫の分まで幸せにしてやりたい」


"俺がこいつの名無しさんになる"




真っ直ぐだ。
曲げること、曲がることを知らない瞳。

なんて汚い大人になってしまったのだろう。命の大切さについて説くつもりが逆に納得せざるを得ないほどの力説をされてしまった。



「…ふっ、あははっ!」
「ちょ…笑うとこじゃないんですケド」
「じゃあこの子にかかる費用は黒尾くんがまかなってね?」
「うぐっ…!バ、バイトをだな…」
「身分を証明するものは?」
「…無いデス」



ほら、やっぱり私は汚い人間。こうして彼の意思をしっかり受け止めたつもりでいるくせにそうやって意地悪をする。

うーんと腕を組んで考えてる黒尾くんを見てると思わず頬が緩んじゃう。カゴのフタを開けて立ち上がった子猫を抱っこし、カゴを床に置いて膝に乗せた。



「鉄、黒尾くんがこう言ってるよ。どうする?」
「…は?テツ?」
「うん。黒尾くんそっくりだから、鉄朗のテツ」



突然鳩が豆鉄砲を食らったかのようなアホヅラをする黒尾くんを笑いながらテツを撫でてやるとまた喉をゴロゴロと鳴らし始めた。



「なんで名前なんか…」
「さっき動物病院で名前書けって言われてもうこれしか浮かばなかった」
「でも名無しさん…」
「あ、言い忘れてたけどさ」




このマンション、ペット飼育可だから。




「…はぁ!?なんで言ってくんねーんだよ!」
「それとこれとは別でしょ?無責任に飼うなんて言われたって嫌だもん」
「そりゃそうだけどさ…あー、ほんと名無しさんには適わねーな」



なーテツ、と言いながら私の隣のスペースに腕と顔を乗せ、片手でテツに触れる。しかしテツは無愛想な顔をさらに無愛想にしてふいっとお尻を向けた。



「んなっ!?」
「ぶっ…まじか…ふふっ…」
「てめっ、助けてやったのは俺なんだぞコラ!」
「あーもうやめて、本当にお腹痛いから」
「笑い事じゃねーっての!」



一生懸命テツを振り向かせようとする黒尾くんの姿が面白い。ソファーにテツを降ろしてカバンの中から携帯を取り出し、その様子を写メで撮ると物凄い顔で睨まれた。

私が笑いをこらえながらその様子を見てると黒尾くんもポケットから真新しい携帯を取り出してテツの写メを撮ろうとする。しかしどれもブレる。また私の腹筋が壊れそうになる、の繰り返し。



「スマホ、買ってよかったね」
「ワガママ言ってよかったわ。…撮れねぇけど」



元彼から助けてもらった次の日、黒尾くんのワガママを聞いて私名義でスマホを新規契約した。
連絡をいつでも取れるように、何かあっても私を助けられるようにという黒尾くんのワガママ。

ワガママって本人は言うけど、そんなんじゃない。むしろ私なんかにそこまでしてくれるなんて信じられなかった。

私と同じ機種の色違いのスマホを構えて未だにブレまくるテツに苦戦する黒尾くん。



「ね、一緒に撮ろうよ。それならテツも動かないでしょ」



私の提案に乗った黒尾くんがテツを抱き抱え、インカメラにして私も映り込み、カシャッと音が鳴る。

見事なまでに黒尾くんとテツが同じような顔をしてて私は大笑いした。黒尾くんは一緒に撮れたことに感動して早く早く!と送ることを急かしてくる。



「ホーム画にしていい?」
「ふふっ、いーよ。あー、早く元の黒尾くん電話が使える日が来るといいね」
「……あぁ、そうだな」
「…?」



先程まで嬉しそうに携帯をいじっていたのに、私の言葉に黒尾くんは顔を上げて少し目線を落とし、返事をした。

どこか寂しそう?やっぱり恋しいんだろうな。早くみんなとちゃんと部活したいんだろうな。


テツが悲しそうな顔の黒尾くんを見上げて一声鳴いたのち、まただらしなく笑ってテツを抱き抱える黒尾くんがいた。


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