Drink it Down. | ナノ







「じゃあ、行ってきます」



今日は日曜日。お店は休み。
今朝はとても晴れ渡っていたのに私が出かける頃には雲行きが怪しくなっていてまるで私の今の心境を表してるみたい。



「…なんかあったらすぐ逃げろよ」
「わかってるよ。大丈夫」
「大丈夫大丈夫って、口癖みたいに言うなよ」
「…わかってる」



いつも見送ってくれるときは笑って送ってくれる黒尾くんも今日だけは険しい顔をしていた。

もう一度行ってきますと呟いて私は玄関を出た。


彼が店に来た次の日連絡を取ると心底嬉しそうに応答された。私は全然嬉しくない。
話があると言えば日曜日なら終日空いてると返されたので一時間だけでいいと言って会うことになった。

待ち合わせは駅前のカフェ。人通りも多く店内も勉強する大学生や休日を満喫する主婦たちで賑わってるし、外観もガラスで外からも店内の様子が伺える。安全っちゃ安全だ。



「やぁ。休日に名無しに会えるなんて嬉しいよ」
「…私は嬉しくない」



もうすでに席について本を読んでいた彼は私の姿を見ると本をカバンに片付けた。
やってきた店員さんにホットコーヒーを注文して彼は既に頼んでいたものをおかわりしていた。

しばしの沈黙、運ばれてきたコーヒーをすぐには飲まず話を切り出すことを決めた。



「なんで呼び出したかわかってるよね?」
「俺の気持ちが届いたんじゃないの?」
「違う。迷惑だからやめてほしいって言いに来たの」
「迷惑?どうして?」



微笑みながら首を傾げる彼は悪びれた様子はない。むしろ私が迷惑がってる理由が本当にわからないようだ。

こういうのはあまり刺激してはいけない。きっぱりと無表情で関わる気は無いと伝えるのが一番だと、昔見たテレビで聞いた。
極力変に刺激しないように私は淡々と話した。



「あの日、うちに来たときなんで私の部屋番知ってたの?」
「あぁ、あれ?そりゃ知ってるよ」
「私教えた覚えないよ」
「教えて貰ってないよ。たまにあのマンションまで行ってたんだ」
「え…?」



信じられない。当たり前かのようにさらっと言ったけど、それって私のこと着けてたってことじゃないの?

何も言えなくなった私に彼は追い打ちをかけるかのように頬杖をついて話し始めた。



「教えてくんないのわかってたからさ。マンションの場所だけわかってたし、その辺張ってたら送迎で帰ってくる名無しを見つけた。そのまま気付かれないようについてったし、ポストを確認してる様子から部屋の番号もわかった。大体仕事は3時から5時の間に帰ってくることも、同伴が無ければ19時頃に出てセットやメイクに時間をかけることも知ってるよ」



俺凄いでしょ?と付け足してにっこり笑う彼はおかしい。絶対おかしい。もし私がまだ出会った当初の学生時代や大人になってから再会して間もない頃ならきっとこの笑顔にときめいていたかもしれない。

でも状況が状況で、私はもう彼に疲れてて、呆れてて、なのに彼はここまで私に執着心を抱いていて。
どうすればいい?この流れは彼に持っていかれてる。刺激しないように、どうすれば。



「…もう来ないで」
「やり直そう。俺、やっぱり名無しがいないと生きてけないよ」
「私なんかいなくても生きていけるから。私もあなたがいなくても生きてけるし、あなたといると心が疲れるの」
「君が俺を避けるから疲れるんだよ。他の奴には癒せない。俺と一緒にいてよ、名無し。お願いだから「そういうのが嫌ってわかんないの!?」



少し大きな声を出してしまった。店内が一瞬だけ静まり返ったけど、痴話喧嘩と思われたらしくまた賑わい出すのに時間はかからなかった。



「束縛もそういう愛情も、私はいらないし重たくて重たくて仕方ないの。二度と関わらないでほしい。家にも店にも来ないで、手紙もやめて!」
「どうして…俺は何も間違ってないだろ?」
「間違いだらけだよ…警察にも相談するから。これ以上はやめて」
「はぁ?おかしいだろ警察は!お前がわかってくんないから俺はこんなに身を削るような思いをしてでもお前に会いに行ってやってんだぞ!?」
「いらない。本当にいらないの。…もう帰る、さよなら」



コーヒー代を机の上に置いて立ち上がった。何か言われてたけど無視して店を出てこのまま警察に相談しに行こうと駅から少し離れた警察署に向かう。

…はずだったんだけど。



「ちょっ…離してよ、痛いってば!」
「待てっつってんだろ!話は終わってない!」
「終わった!話も私たちの関係ももう終わったの!いい加減気付いてよ、鬱陶しいの!」
「なっ…黙って聞いてれば自分勝手なこと言いやがってコイツ…!」



ギリッ、なんて骨が軋む音が聞こえた。とてつもなく痛い。そりゃそうだ、自分より身長も高くて力のある成人男性が両手で腕を思い切り握り潰す勢いで掴んでるのだから。

痛みに負けないように睨み返してカバンでもぶつけてやろうかと振りかざしたけどそれに気が付いた彼がカバンを引っ張って取り上げてしまった。



「ちょっと、返してよ!」
「お前がわかるまで返さない!」
「わかることないって言ってんでしょわかりたくもないの!痛っ…」
「もういい、俺の家連れてく。わかるまで話すしかない」
「離して!嫌だってば、それどういうこと言ってんのかわかってんの!?」



最悪なことに人は通らない。この道を抜ければもう目の前に警察署はあるのに、警察も通らない。

服の肩の部分を引っ張られたときに爪が食い込んだのではないかと思うような痛みが走った。腕はまだ握られたまま。
どうする、このままじゃ引き摺られて彼の家で本当に監禁されてしまう。

どうすれば、どうすれば。





「あのー、スミマセン」



控えめに誰かが彼に話しかけてきた。
そこそこ身長の高い彼の真ん前に立ってるらしく、その姿は私からは見えない。

顔を見なくてもわかるけど、彼はすごく苛立ったかのように返事をしていた。



「そのオネーサン、嫌がってるんじゃないですかネ」
「気のせいだろ。取り込み中だからどっか行けよ」
「いやー、そう言われましてもボクとしては見過ごせないというかなんというか」
「ほっといてくれ!俺たちは恋人で、ちょっと揉めただけなんだ!」



どこがちょっとだよ、どこが。
私はボロボロだよ。

今なら抵抗すれば逃げられる気がするのに、体はダルいしところどころ痛くて動ける気がしない。
もういっそこのまま連れ去られた方が楽なのかな、なんて思ってた。



「へ?アンタら別れたんじゃねーの?」



その一言で彼の目の前に立っている人物が誰かわかった。私は目を見開いて前を向く。
彼越しに頭をひょこっと出してこちらを見下ろしているのは、いつも家で安心する時間をくれていた彼。



「…黒尾くん、」



意地の悪そうな笑みを浮かべた黒尾くんは、よっ!と片手を上げて私に挨拶する。白々しい。こんな状況でも笑いそうになる。

笑うのを堪えて、私は力を失いかけていた体を精一杯動かして彼の手を振りほどいた。
そのまま距離を置くと黒尾くんが私と彼の間を割って入って背中に隠してくれた。



「名無し…?こいつとどういう関係なんだよ。なぁ、こっち来いよ」
「…嫌だって、言ってんでしょ」
「はぁ?早く来いっつってんだろ!」
「女性に対してその言葉はどうなのかね、オニーサン。振られて逆上する気持ちもわからなくもないけど、かっこわりーデスヨ」



わざとらしく鼻で笑った黒尾くんに私は少し焦りを感じた。刺激しちゃいけないってさっき必死に心で唱えてたのに、この子は…!

慌てて黒尾くんの服を掴むと、その手に黒尾くんの手がそっと重ねられて焦りもどこかへ行ってしまった。


あぁ、彼は私を助けるために来てくれたんだ。
大丈夫大丈夫って言い聞かせて逃げてた私に、彼は手を差し伸べてくれたんだ。



「これ以上なんかしようもんなら警察どころじゃなくなるからな。名無しサンのこと想うならもう放っておいてやってくんね?」
「お前には関係ないだろ!クソッ…名無し、また迎えにいくから」
「もうくんなってーの」



それだけ言い残して怒りに顔も性格も思考も歪めてしまった彼は去っていった。


私はお礼も何も言えないまま黒尾くんに手を引かれて家へ帰ることになった。
マンションに着くまで一言も交わさず、私達はずっと無言で何も考えることすら私は出来なかった。



「…着いたぞ」
「うん…あの、ありがとう」



スペアキーで鍵を開けて部屋に上がるとすぐにいつも使わないサブの鍵も含めて施錠し、黒尾くんはずかずかとリビングへと歩いていってしまった。

靴を脱ごうと足を上げれば少し痛くて、どうやら彼に引っ張られたときに爪先をどこかにぶつけたらしく、その衝撃で爪が折れていたみたい。痛い。
痛いしかないじゃん、今日。



「…何か飲む?」
「いい」
「そっか。…えっと、本当にごめん。大丈夫だって言ったのに、結局黒尾くんに助けられちゃったね。ほんと、ごめん…」



ソファーに座る彼の隣に腰をかけるのは気が引けたので、立ったまま謝ってみたけどただでさえ少し目付きが悪い彼に鋭く睨まれて肩が大袈裟なまでに跳ね上がった。

じっと睨まれ続けて何も出来ず、目を泳がせて俯くと黒尾くんは深く大きな溜め息をついた。



「…座んねーの」
「すわ、る…」



控えめにソファーの前に座ると後ろからとんとん、と音が聞こえた。隣に座れということか。
もはや家主が誰なのかすらわからなくなってる状況だ。

おずおずとしながらも隣に腰掛けると黒尾くんはよし、とでも言いたそうに鼻を鳴らした。



「どこが大丈夫なんだよ」
「えっと…こんなことになると思わなくって…」
「嘘つけ、絶対わかってたろ。俺ですら想像ついたから付いてったってのに」
「…いつから見てたの?」
「カフェ入るとこから、ずっといた」
「うそ、気付かなかった…」



それから更に無言。

沈黙が今は痛い。何か話して欲しいし、何か言わないとと考えても頭は混乱するばかりで落ち着きを取り戻せない。



「…助けられたのは、お互い様だろ」



俯きながらどうしようかと考えていると頭からそう言葉が降ってきた。顔を上げて黒尾くんを見ると肘置きに頬杖をついて前を見ていた。



「俺だって名無しさんにはいつも助けられてるわけだし、こんぐらい…つったらアレかもしんねーけど、守るぐらいなら出来るし」



守る、とは。

今まで自分の身は自分で守らないとって思って生きてきた私にはどういうことかあまりわからなかった。

でもこうして黒尾くんは私を助けるため、守るために何をされるかわからない相手に果敢に声を掛け、私を背中に隠して守ってくれた。


また、心が暖かい。



「とりあえず警察には行くぞ。あとしばらく仕事休めんなら休んだ方がいいんじゃねーの」
「休める、けど…たまに来客で出勤しないと、お客さん繋ぎとめられない」
「…じゃあ仕事のときは絶対誰かといろよ。他は俺がついてっから。帰るときも連絡…あー…」



そこまで言って黒尾くんは顔を手で覆った。
言いたいことがわからなくて、私は首を傾げながら黒尾くんを見る。

すると少し何かを考えたあと、黒尾くんは意を決して私の目を見て口を開いた。



「ワガママ、聞いてくんね?」
「…え?」
「名無しさんのために、欲しいもんがある」



黒尾くんはニヤリと笑ってそう言ったけど、それは意地悪な笑顔とかじゃなくってどこか柔らかくて優しい笑い方だった。


私のためじゃなくても、ワガママなんていくらでも聞いてあげるのに。素でそんなことを心の中で思って口にするのは今はやめておいた。


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