Drink it Down. | ナノ







仕事に向かうとき。いつも頭の中は今日の呼び客とか個人売上とか、あとは最近入った新人の子のヘルプをどこに付けてあげようかなとか、そんなことが多かった。

でもここ1ヶ月ほどでそれは変わった。



(黒尾くん、今日も走りに行くのかな)



家を出たのは16時ぐらいで、17時から同伴の待ち合わせに私は向かっている。

私が行ってくるね、と声をかければちょうど部屋から出てきた黒尾くんはジャージに着替えててタオルを探しに脱衣所に向かうところで顔を合わせた。
もちろん、いってらっしゃいの一言を添えてくれた。律儀な子だ。今どきいってらっしゃいなんて言ってくれる高校生いるのか?それはそれで高校生たちに失礼か。



で、話は戻るけど出勤のとき、基本的に仕事のことばかり考えながらせかせか歩いてた私だけど、ここ最近考えることといえば黒尾くんのことだった。

心配しすぎ?
でも大丈夫かな、とかそんなことばかりじゃない。
今日もご飯作ってくれたりしないかなという甘えだったり、寝癖とお風呂上がりでの差がすごくて思い出し笑いしそうになったり、どこの公園で子どもたちとバレーしてるのかなとか。



(ま、いっか)



今のところ彼は私に普通に接してくれて私も彼とは普通に接してる。やましいことも何も無いし、姉と弟って感じ。

早く元の世界に帰れるといいな、なんて呑気に考えてた。このときは。







「ナナシさん、本指です」
「え?」



ちょうど同伴の客が帰ったのが1時頃。4時間ぐらいいてくれて、さらにボトルは下ろすわ謎のノリでシャンパン下ろすわのどんちゃん騒ぎだった。
新人のヘルプも付けられたし、安心して煙草でも吸おうとしてたのに。

でも今日は呼び客は同伴のお客さんだけ。
本指名で連絡も無しに来るような客、私は記憶にない。たまたま?間違い?
だからと言って特に気にせず軽く化粧を直したあと、ボーイに連れられてその客の待つ席へと向かった。



「やぁ、久しぶりだね」



背筋が凍ったかのように冷たい。
何事もない様な顔でその席に座るのは黒尾くんと出会って間もない頃、私が振った元彼だった。

立ち尽くしたままでいるとボーイにつつかれ、早く座らないとと耳打ちされる。座りたくない。でも騒ぎ立てるのも店に悪い。
とにかく早く帰ってもらおう。お金もなんなら私が後で払おう。そう決めてゆっくり、少しだけスペースを空けて隣に腰掛けた。



「失礼します」
「初めて名無しが働いてるとこ見たけど、やっぱり誰よりも綺麗だね」
「…はじめまして、ナナシです。誰とお間違いになられてるのでしょうか」
「つれないなぁ。ナナシって名前なのも知ってるよ。でもこの店で君の本当の名前を知ってるのは俺だけでしょ?」



なんなんだ、こいつ。
じとりと横目で睨みながらハウスボトルを掴みとにかく早く帰ってほしい一心でドリンクを入れてコースターの上に乗せた。

嬉しそうにグラスを眺める彼の目はどこかおかしな色をしているように感じて肌が嫌な粟立ち方をした。



「ね、名無しと乾杯したい」
「…それ飲んだら帰って。お金は私が出しとくから」
「なんで?名無しの売上に貢献しにきたんだよ?喜んでくれないの?」
「嬉しくない。喜べない。私、あなたに会いたくなかったの」



私の言葉に目を丸く見開いたあと、彼は笑って心外だなぁと言った。
グラスに口を付けて一口だけアルコールを入れるとカバンからおもむろに財布を取り出した。
ニコニコしながら私にその財布を差し出すその仕草もどこか怖い。最後に私のマンションに来たときのことを思い出すし、黒尾くんから聞いた話がもし彼のことだったとすれば、相当怒りを買ってるわけだから何されるかわからない。



「いくら入ってると思う?」
「興味無い」
「今日はとりあえず20万。少ないと思うけど、俺がここでお金使えば名無しは喜んでくれるだろ?」
「…何度も言うけど嬉しくないし喜べない。そのお金は別のことに使って」
「名無し、好きだよ」



この男は。話が通じなさすぎる。
こんなにも話の通じない人だったか?と考え唸りたくなるほどに。

財布を両手で押して突き返すと悲しそうに笑って漸くカバンにしまってくれた。



「もういい?私他のお客さん来るから」
「今日はもう呼び客いないんじゃないの?」
「…誰から聞いたのか知らないけど無駄だから。急遽来てくれる人が出来たの」
「そっか…俺じゃ名無しの時間を買える金がないってわけだな…」
「ちょっと、そういう意味じゃないし。それにもう来ないで欲しい。私はもうあなたと戻る気は無い」



お金、いらないからとだけ言い残して私は席を立った。呼び止められるかとも思ったけどそんなこともなくグラスの残りを飲み干して彼はそのまま店を出た。

溜め息をついてまたバックに戻るとボーイに事情を聞かれたので説明すると笑われた。
笑い事じゃないんだぞ、と怒りを込めて睨むとまた笑われた。この野郎。



「まぁでもナナシさんも大変っスよねー!モテる女はつらいってやつ」
「そんな良いもんじゃない。出禁にしておいて、あの人」
「出禁はともかく、警察行った方がいいんじゃないっスか?」
「実害はないから何かあれば行くつもり」
「あれ?実害あるっしょ?だって毎日───」



意味が分かると怖い話。
2回同じものを読んだときの、または読み終わったときのあのゾッと背筋が凍る感じ。それと同じような悪寒が走った。

顔が真っ青になって少し目眩もして、立つのも困難になった私は混乱する頭の中でボーイの言葉がぐるぐると響き渡っていた。



あまりに様子が変わってしまった私を見て店長が早上がりにしてくれた。送迎に揺られていつもの運転手に何か話しかけられてもちゃんと返事出来たかすらわからない。

マンションの真下に車をつけてもらって降りたと同時に軽く走った。ロビーに奴はいない。
私の部屋の番号のポストはよくわからないビラといつも買い物してるブランドのDM以外何も無かった。



「おかえりー、今日も早かったんじゃねーの…ってどうした?顔色悪いけど…」
「黒尾くん…」
「体調わりーの?」



玄関に突っ立ってる私を見下ろして心配そうに聞いてくれてるところ申し訳ないけどカマをかけることにした。きっと、この子は私に隠してることがある。先ほど確信したからだ。

小さく横に首を振ると黒尾くんは少しも考える様子なく険しい顔になって私の肩を掴んだ。



「まさかと思うけど変な奴になんかされたんじゃねーよな…?」
「変な奴…そうだね、ちょっと…」
「クソッ、先に手を打っときゃよかったか」
「身に覚えないんだけど…」
「え?」



私の言葉の続きを聞かなかった黒尾くんの口から漏れた良くないもの。
本当に知らないので身に覚えないと言えばやってしまったといった顔をする黒尾くん。

首を傾げてじっと見上げれば、彼は少し固まったあと深くため息をついてやられた…と呟き頭をガシガシと掻いた。



「あー…とりあえず向こう行かね?話すから」
「…わかった」



私のカバンを取ってそのままリビングへ向かう彼の背中を追いかけた。カバンはそのままソファーの脇に置いてくれた。

テーブル挟んでテレビ側に座る黒尾くんとソファー側に座る私。先ほどと同様じっと黒尾くんを見つめると気まずそうに目を逸らしたあと、彼は立ち上がってキッチンカウンターから何かを持ってきた。


ぎょっとした。
大量の水色の封筒。

それは半月程前に黒尾くんがランニングのときに会うお姉さんにもらったラブレターと同じものだった。



「これ、何…?」
「誰から聞いたのか知らねぇけど、毎日1通以上ポストに入れられてる。酷いときはインターホンめっちゃ鳴らされてる」



吐き気が襲ってきた。吐くことはないけど本当に本当に気持ち悪かった。

『だって毎日手紙入れてるらしいじゃないっスか。しかも直接家に行って』

ボーイから聞いた言葉。本人が私を待ってる間に話したらしい。なぜそんなことをボーイに話したのか、なんとなくわかるようでわからない。



「…別れたんかよ」
「半月ぐらい前にね。見ての通り彼は本当に重たくて疲れたの」
「まぁこれはそうなるわ…つーかわかってはいたけど彼氏いんのに俺住まわせてこんなことなって大丈夫かよ」
「大丈夫、ちゃんと明日話してくる」
「チョットさすがにそれは聞き逃せないかな名無しサン」



私を庇うために苦しまないために黒尾くんなりに手紙を隠したり黙っててくれたのはわかってる。
けど彼をこれ以上のことが起きて巻き込むわけにはいかない。自分で解決すると別れた時に決めたんだから。

でも私の意思とは裏腹に黒尾くんは怒ってる。
笑ってるけど怒ってる。彼の性格はこの1ヶ月でわかってきてるつもりだから、面倒事に巻き込まれるのは御免なはずなんだけどな。



「大丈夫、何かされそうになったら警察呼ぶから!」
「そうじゃねーの。それ呼ぶ頃には何かあった後なの目に見えてっから」
「でも、じゃあどうすればいいの?」
「うーん…」



腕を組んで黒尾くんが考え出して無言の時間が流れる。
途中、欠伸を噛み殺す様子が見えて携帯を見ればもう3時を過ぎていた。



「今日はもう寝よう。明日、起きてからどうすればいいか考えるから」
「…わかった。ちゃんと寝ろよ」
「黒尾くんも。ごめんね、面倒なことになっちゃって」



化粧を落としてリビングの電気を消し、お互いの寝室へと入るときにそう話すと黒尾くんはまたあー、と言って足を止めた。

何か言い難いことや何を言うか考えながら慎重に話そうとしてるとき、彼はそう無意味に声を出すことが多いことは知ってる。



「名無しさんには世話になりっぱなしだからよ、俺に出来ること限られてるけど助けたいとは思ってる」



目を見て真っ直ぐに投げられた言葉。
心が暖かい。

照れ臭そうにおやすみ、と言って私の返事を待たずに部屋に入ってしまった。
私はすぐに動くことが出来ず、ふふっと笑ってからおやすみと呟いて寝室へと入った。


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