Drink it Down. | ナノ






『おっ、おかえり』



必ず私が帰る時間まで起きてくれる人が家にいて、必ず"おかえり"と迎えてもらえることはこんなにも嬉しくて暖かくて。



『ただいま』



決まった返事をすることが、どこでも当たり前な返事を返すことがこんなにも平穏な幸せを感じられるものだなんて。





「おかえり、遅かったんだね」



黒尾くんが私の家に住むことになってから1週間とちょっと。

いつもより少し遅く仕事が終わった私は起きている彼に悪いと思って急いで帰ってきた。
帰ってきたのだけど。



「…なに、してんの」
「名無しのこと待ってた」
「待たなくていいし、家来るときは連絡欲しいって言ったよね」



マンションのロビー、観葉植物の隣に設けてある休憩スペースの椅子に彼はいた。

彼、私が高校生のときの先輩。そして私の恋人であり、気持ちが冷めつつある相手。



「最近連絡してもなかなかちゃんと返してくれなかったじゃん」
「…ちょっと、忙しくて」
「ふーん?このマンション、引っ越してきて半年は経つと思うけどいつになったら入れてくれるの?」
「未だ片付いてないから今日は…」



帰ってほしい。

早く帰ってほしい。
今日は帰るの遅くなったから、黒尾くんが起きてたら待たせちゃう。



「そんなに帰ってほしい理由は何?」



下がった目線を上げると傷ついたような笑顔を浮かべる彼の姿。前ならここでそんなことないよ、気のせいだよと言えるほどの情があったけど、今は違う。

重たい。愛されることもつらいのだ。
良い事ばかりではない。
とても心配症で独占欲も強め、束縛も酷くて私に自由を与えてくれなかったから家を変えて彼の住んでる場所から結構離れたのに関係ないらしい。



「もう時間も遅いでしょ、私早く寝たいの。疲れてるし」
「俺と一緒に寝ようよ。たまには泊めてくれてもいいじゃん」
「さっき断ったよね?明日も出掛けなきゃいけない予定があるの。帰って」



また連絡する、と言い残してオートロックのあるドアへと進む。ついてこないでほしい、なのに彼は私の腕を掴むと鍵を奪って回した。

素早い行動に反抗する隙もなく、開いたドアへと私の腕を引いて(というか引きずって)中へと入ってく。



「ちょっ…なにしてんの!?警察呼ぶよ!?」
「好きにすればいいだろ。俺は名無しの恋人なんだ。暴力も何もしてないし、きっと取り合ってもらえないよ」
「いいから離してよ!帰って!」
「どんだけ必死なわけ?俺をあげたくないのは本当に片付いてないってだけの理由?」



エレベーターに乗り込み私の部屋の階を押される。なんで知ってんの?教えた覚えないんだけど。

乗り込んで降りて部屋の前に着くまで腕は痛いほど掴まれたまま。部屋の番号も教えた覚えがない。どうして?なんで?



「開けてよ、ほら」
「……」
「早く開けろっつってんだろ!」



突然聞いたことのないような大声で怒鳴られた。反射的に跳ねる肩と小さく震え出す体。

私はゆっくり鍵を取り出す。
中に黒尾くんがいる。彼に会わせてはいけない。私と黒尾くんは特に怒られるような関係ではないけど、彼とは接触させてはいけない。そう頭の中で警告してる自分がいるのに手には鍵が握られていて、それを取り上げるように彼は掴み取った。

がちゃりと音を立てて鍵が開いた。



「電気、付けっぱなしだけど」



中にお構い無しに入ってく彼の腕を掴もうとするも、私の手は空振りした。靴を脱いでリビングに入る彼の背中を慌てて追いかける。

そこに黒尾くんはいなかった。
黒尾くんが来る前と同じ光景。



「わかったでしょ、何も無いって。早く帰って」



私の言葉を無視して寝室と黒尾くんの部屋になる予定の物置部屋と化した隣の部屋を次々開けていく彼。しかし本当に誰もいない。

物置部屋も片付けてあって布団も置いてあるけど何も不自然なものではない。
そして何より黒尾くんの物はちゃんと片付けてあって何一つ出ていない。



「意味もない疑いを掛けられてこんな手荒な真似されてたまったもんじゃないんだけど」
「そりゃ不安にもなるだろ!なぁ名無し、俺はお前の恋人なんだよ。なんで連絡無視するんだよ。他のやつに取られないか心配だし今の仕事もやめてほしい。今すぐにでも俺と暮らして…!」
「ねぇ」



私の両肩を掴んで捲し立てるように早口に吐露する彼を私は冷静な気持ちで見ていた。いや、冷えきった視線、のが正しい。

私の無表情さに彼は目を見開いて硬直した。これから言う言葉を察したのだと思うけど、私はそんなの気にしなかった。



「私たち、別れましょう。もううんざりなの。帰って」



私の言葉に歯を食いしばって首を横に振り、彼は黙って家を出て行った。




時刻は午前6時前。

黒尾くん、もしかして帰れたのかな。だったらいいんだけどな。なんて呑気に考えながら力の抜けた体は少し震えていて、大きなため息をつきながらソファーへなだれ込んだ。



「…怖いなぁ」



ぽつりと無意識に呟いた。
目を閉じて流れてくる先程の彼の行動。怒鳴り声も頭で響き出して頭痛が起こる。

終わらせてくれるだろうか。
彼のことだから、きっとしつこいに違いない。どうしよう。警察に相談する?いや、まだ取り合ってくれない段階だから無意味に等しい。引っ越す?まだ1年も住んでないのに。気に入ってるんだけどな、この部屋。

黒尾くん、もう戻ってこないのかな。



「何が怖ぇーの?」



すぐ近くから声が聞こえて目を開けた。勢いよく体を起こすとタオルで額を拭いながらこちらに歩み寄る黒尾くんの姿がそこにあった。

謎の安心感に鼻の奥がつんとする。



「黒尾くん…どこに、」
「あー、ランニング行ってたんだけどよ。このマンションから変な奴出てきたの見えたから急いで帰ってきた」
「変な奴…?」
「なんか独り言がすげーんだよ。しかもめっちゃ怒ってた」



彼だ。

彼以外考えられない。

もしかしてまさかひょっとして、彼は私に振られたことにショックどころか憤りを感じていてこれから何かされる可能性もあるかもしれない。

手を打たないと。何かされる前に。自分の身は自分で守らないと。
黒尾くんを巻き込まないように、しないと。



「顔色悪いけど、なんかあったのかよ」
「えっ、あっ、何も…ちょっと飲みすぎたかなぁ?」



程々にしときなさいよ、と苦笑いする黒尾くんにどこか安心感を覚えてる自分がいる。
絶対、彼を巻き込んではいけない。彼は関係ない。この世界の人間でもない彼を、傷つけるようなことはあってはならない。

私はふっと作り笑いをしてもう寝るね、と化粧を落としに洗面所へと向かう。



「…名無しさん、無理すんなよ」



背中に投げられた言葉に思わず足を止めてしまったけど、大丈夫!と笑って返事をした。


大丈夫、私は黒尾くんを助ける立場。
ひとりでどうにかできる。



このときはそう思ってた。


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