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今宵は、満月。
白い月。
そして、影のような黒い月。
対になる二つの月が、静かな世界を照らしていた。
古い時計塔に彼女はいた。
地上を離れ、空に近づいたその位置で、足を振りながら、空を見ていた。
漆黒のコートに身を包んだ、黒髪の少女。
風が吹く度に、コートがふわりと舞い、彼女の白い服が見えた。
そして、白すぎる肌も。
お気に入りの曲を口ずさむ。
今夜は、本当に良い夜だ。
「コハク」
「お兄ちゃん」
振り返れば、そこに兄はいた。
場所も時間も気にせずにつけている、お気に入りゴーグルを外し、コハクの隣に立つ。
「危ないぞ」
「誰もこんな所に興味を示さないって」
「けどな」
「夜は、わたし達の味方だよ」
コハクの兄――ヒスイは、前髪をクシャリと掻きあげる。
そして、諦めに似たため息を返した。
ヒスイはしゃがみ、そっと妹の額に手をやる。
「熱はない……か」
「自分の体調くらい、自分で管理できる。お兄ちゃんは心配症なの!」
「誰のせいだと思ってんだよ」
「最近は大丈夫でしょ」
油断した時が、一番危ない。
それはコハク自身よく分かっている。
だから、ヒスイはそれを言わなかった。
彼はコハクの隣に座り、空を見上げる。
「ホント、良い夜だな」
「うん!」
ゆっくりと流れるように感じる夜の時間。
一言二言会話を交わしながら、その空気を楽しむ。
瞬間。
銃声が、月夜を切り裂いた。
こんな夜に聞こえる音は、アレしかない。
「見つかったのね」
「バカだな。上手く身を隠せっての」
「気づいたのが、今さっきとか」
二人は暫く会話を続ける。
鳴り止まない銃声は、彼らの標的が生きていることを証明していた。
「お兄ちゃん」
「へいへい」
二人は立ち上がる。
強い風が吹いた。
彼女たちの姿を消すように……。
***
「っはぁ……はぁ……」
呼吸が上手く出来ない。
そんなことより、足を動かさなければ。
ただ前を見て、必死に走る。
立ち止まれば、そこに待ち受けるのは『死』。
背後の足音と銃声から、とにかく逃げていた。
自分が何故殺されそうになっているのか、考える余裕など、どこにもなかった。
いくらなんでも、そろそろ限界だ。
足が言うことを聞かない。
体が思うように動かせない。
酸素が足りないのか、頭がクラクラする。
「っわ!!」
足を取られ、その場に派手に転んだ。
手足が痛むが、体が休息を求めるが、急いで起き上がる。
「……げない、と……」
少年――シング・メテオライトは、ただ前を見て、再び走り出した。
そのうち体力は限界を迎え、体に熱い塊を嫌というほど受けるのだろう。
無駄な抵抗だとしても、最後まで、命散るその瞬間まで、意地でも走り続けてやる。
そう決意した直後。
「こっち!!」
突然現れた少女が、シングの手を引っ張った。
バランスを崩し、彼女に引き込まれる。
少女は静かに木の扉を閉めた。
数秒後、複数の足音が、その道を通り過ぎて行った。
「っはぁ、はぁ……」
助かったのだろうか。
なかなか息が整わず、言葉を発することが出来ない。
「はい」
少女は水とヒンヤリ濡れたタオルを渡した。
「……りが、と」
「いいえ」
にこりと微笑んだ少女は、とても可愛かった。
トクリと心臓が別の音を立てた。
ごまかすように一気に水を飲む。
そして、ヒンヤリとしたタオルで顔や転んだ際に汚れた手を拭く。
ようやく落ち着いたシングは、少女にお礼を述べた。
「君のおかげで、助かったよ。本当にありがとう」
「当然のことだから。けど、貴方が無事で良かったよ」
「何で助けてくれたんだ?」
銃を持った兵士のような人々に狙われていた。
そんな怪しい人物を普通助けるだろうか。
こんな年頃の少女は、怖がったりするのではないか。
幾つもの疑問が、シングの脳内を駆ける。
それが口に出ることはなかった。
不意に少女に襟元を掴まれる。
「え……?」
混乱するシングを無視して、少女は彼の首に顔を埋めた。
「ちょっ……痛っ」
制止しようとしたが、焼けるような痛みに言葉が途切れた。
ジクジクと激しく痛む箇所をペロリと舐めて、少女はシングから離れた。
咄嗟にその部分に手を置くが、痛みは嘘のように消えていた。
「君……」
「今のは、ヴァンパイアの洗礼。ようこそ、夜を愛する我が同胞よ」
彼女が何を言っているのか、分からない。
ヴァンパイア?
「ん? ちょっと、ゴメンね」
少女はシングの前髪を上げ、額に触れる。
「ちょ、ちょっ、ちょっ……」
文字を描くように、少女の右人差し指が動く。
「貴方、ハーフヴァンパイアなんだ」
「はー……ふ?」
彼女の言葉すべてが、理解出来ない。
「とりあえず、貴方の名前は?」
「オレは、シング」
「シング、ね。わたしは、コハクよ」
「良い名前だね」
「ありがとう」
そのままコハクは何かを考えていたが、一人納得したようで頷き、シングを見た。
「色々聞きたいだろうけど、わたしよりお兄ちゃんの方が説明は上手いだろうし……」
コハクはシングの手を引っ張った。
「えっ……」
「来て。家に案内するから」
シングが何かを理解する前に、コハクはその先を行く。
混乱する頭を整理するには、彼女について行くしかない。
初対面の相手だが、『可愛い女の子に悪い子はいない』という意味の分からないシングの持論がある。
疑う気など端からなかった。
追っ手が通り過ぎた静かな路地。
コハクが踵を軽く鳴らせば、彼女の背に漆黒の翼が姿を見せる。
大きなコウモリの羽。
「それ……」
「君には、まだ無理かもね」
憧れた訳でも、興味を持った訳でもない。
目の前の現実にただ驚いただけだ。
「ほら、行くよ」
バサリバサリと羽ばたかせ、彼女は軽く浮き上がる。
「えぇ!?」
「早く手を」
「あ、ああ」
躊躇いがちに、彼女の手を握る。
小さくて柔らかな彼女の手。
そして、何かが伝わってくる感覚。
気がつけば、シングの体も浮かんでいた。
「!?」
「大丈夫。ゆっくり飛ぶから」
微笑む彼女に、何とか頷いたが、直後に悲鳴をあげることとなる。
重なる出会い
始まりって、いつもそうでしょ?
2009/09/03
加筆修正 2011/05/23