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小ネタ
2020/03/30 03:02

 ひくりと、軍医の米神が初めて波打った。

 喚いていた男が急に黙って宙に浮いた。と、コロネロが錯覚するかしないかの内に、呪詛のような音が軍医から洩れた。
 
「────傷病者条約第一条。軍隊の構成員で負傷又は疾病にかかった者はすなわち無害となり防衛の手段を失った者は国籍のいかんを問わず尊重され暴行、侮辱、殺戮から守られかつ保護、適切な治療・後送をされなければならないとする」
 
 淀みなく読み上げる声音は無機質で機械的で。先程までのへらりと笑ってのらくらと聞き流していた軍医とは、まるで別人だった。聞き間違いではないのか。誰もが思ったが、何の温度も感じられない声音に、室内は静まり返ったままだった。
 
「──それが大原則でありそれ以上もそれ以下もないから、だ」
 
 今更だが喚いていた男は少将だろうか。角度が悪くてわからないというより、軍医に襟元を締め上げられていたので判別出来ないというほうが正しかった。通常ならこんなことをすれば即効懲罰房入り、高官によっては射殺もやむ無しと当然のように宣うのが常だった。この少将は明らかにその類だろうに、軍医は全てを無視するかのように掴み上げた迷彩服を緩めようともしなかった。小柄な背格好からは想像出来ないような力でも発揮しているのだろうか。少将は呻くばかりで軍医の手を振りほどく事も出来ないでいた。恥辱の為か呼吸困難な為か、はたまた両方か。少将の顔色がどす黒くなっていく。それを、冷えきっているのに爛々と輝く琥珀が、髪の隙間から無感情に眺めている。
 
「それ以外に貴方を助ける義理も何も一切持ち合わせていないし、持ちたくもないんですよね、俺は。そんなこともわからないくらいに貴方の脳漿は撃たれ過ぎて飛び散ってしまわれたんですか、少将閣下殿」

 軍医は元々早口ではなく、どちらかといえば聞き取りやすいゆったりとした口調で話す。それが今では無感情なうえ、吐き出された言葉からはかなりの圧迫を感じた。決して大きくはない、涼やかにも聞こえる声音が逆に背筋をなぞる。子供のような悪態をついていた少将の口も止まるというものだ。
 腕力にものを云わせて黙らせているともいうが。
 
「こちらが幾ら消毒液や清潔な衣類、水をかき集めたって、優先されてんのはアンタらみたいなクソミソ閣下野郎ばっかで、一番被害を受けている人達まで行き渡りもしないんですよ。それでも仕方ない、命をかけて戦ってくれてるんだからって言い聞かせて、出来る限りのことをして堪えていれば調子に乗りやがって、言うに事欠いて殺せですか・・・・?」

 
 
 ぶちん、と何かが盛大に切れた音がした。
 
 
 
「──ふっざけんなよこのクソ少将閣下が死にたきゃ誰もいないような場所で勝手に好きにくたばればいいだろう何をのこのこ此処まで連れて来てもらった癖にちゃっかり人の手まで借りてあまつさえ人の手汚させようとしてんだふざけんな尻拭いしてくれるのが当たり前だと思うな楽すんな甘えんな一体何を士官学校で学んできたんだどんだけおんぶに抱っこのお坊ちゃまなんですかアンタは!?」

 一息で言い切っていた。
 言葉が具現化出来たのなら、少将は止めを刺されていたのではないだろうか。そんな危惧をしてしまう勢いだった。
 少将が鶏のような声をあげる。最早落とされた方が楽だろう。軍医は気絶しない程度に少将の頸動脈を締め上げている。
 とてもそんな汚い言葉など知らないような、人畜無害そうな童顔の軍医の口から罵詈雑言がまだまだ飛び出てくる。ひっそりと軍医のことをナイチンゲールだなんて思っていた数人の心が折れた。気のせいだと思い込みたいくらいだった。
 途中、終わりがないように投げつけられていたスラングが止まる。
 気が済んだのか、止めるべきか、コロネロが逡巡した時だった。軍医の声が揺らいだ。
 
「だけど、アンタはまだ生きてるじゃないですか。足もあるし腕もある、腫れあがってるけど眼も見えてる。口もきけるし水だって飲めるのに・・・っ!」

 破裂したように喚く。叫ぶ。
 泣いているようだった。
 
 くしゃりと、軍医の顔が歪んだ。先程とは打って変わって沈痛な面持ちで、悔しげに、呻く。
 
「・・・まだ二歳だったジャックは地雷を踏んで半身が吹っ飛んだ。駆け足が好きだったサリファは爆撃で瓦礫の下敷きになって足を無くした。ジャックはどこぞのアホ兵士に気紛れで殴られて片眼が潰れた。──敵兵に襲われたマリは口が利けなくなった」

 絞り出した声音は弱々しかった。ぎゅうと少将の迷彩服を掴んだ軍医の肩が、急に小さく見えた。
 
「全部が全部あんた等のせいなんて言わないですよ。資材も薬も何もかも持ってかれて、大した治療もしてやれなかった。俺が未熟で守ってやれなかっただけですから。でも、だからってまだ何も無くしてないのに、それを無下にするような事をあの子たちの前で吐くのはやめてください」

 俯いていた顔を上げる。醒めるような朝焼けの瞳が、草臥れた白衣と対照的に燃えている。少将の息を飲む音が部屋に響いた気がした。
 
「俺は、俺だけはアンタらを楽になんて絶対にさせません。這いつくばって泥水啜ってでも生きてください。それがアンタらの、俺たちの決めた道でしょうが。悔しかったらさっさと元気になってみてくださいよ、そしたら文句の一つでも聞きますから」
 気圧されるように、少将が身を引きたそうに身動ぎをする。逃がさないとばかりに軍医が更に少将を引き寄せた。吐息がかかる。
 
 なんなんだ、コイツは──。少将は、最早目の前にいる軍医が恐ろしくなっていた。ただの痩せた猫背の小汚い軍医風情が。言ってやりたいのに声が出ない。何も言えない。
 
 眼が、この琥珀から離れなかった。

 
 
「少将閣下殿は俺の言ってること、理解してくれますよね──?」

 一オクターブ以上確実に下がった軍医の声音が、殊更ゆっくりと脳髄に響いた。少将が目線を逸らし、舌打ちをする。
 あぁ、くそ。こうしてしまった時点で負けだ。敗北した気分だった。最悪だ。
 胸中で様々な感情が渦巻くが、途中馬鹿馬鹿しくなり少将は息を吐いた。
 幾ばくかの後、少将は微かに頷いた。いつの間にか緩められていた手と共に、軍医がやっと息を吐く。周囲の空気も少し弛んだ気がしたのも束の間。
 
「──わかったんだったら黙って治療されてろこのくそ少将!!」
 
 傷口開くだろうが汚い手で弄くり回すなしゃべんな黙って寝てろこの死に損ない!!と、寝台に叩き付ける勢いで怒鳴りつけた。見知らぬ上官をあーもういらんカロリー消費したと投げ捨てる軍医に、もう誰も何も言わなかった。
 
 俺は何も見ていない、聞いていない、知らない、関わりません、絶対に。

 力が抜けた兵士たちは、緩んだ空気にやれやれと息を吐いた。
 文句を言いながらも的確に軍医は少将に対して処置の続きをしている。口調とは異なり手つきだけは迅速で丁寧だ。時折少将が呻くのは、少将が何か憎まれ口を叩いた時だけだった。
 
 ・・・・・・・ワザとやってねぇか?
 
 隣のベッド下士官が突っ込みたくなったがやはり見ない振りをした。余計なことを言えばこの理不尽の権化がまた暴れ出すのではないのかと危惧をしたので。
 しかしもう、少将は治療を拒否したりはしなかった。大人しくしている。心底気色悪かった。鋏が眼球目掛けて飛んできた。エスパーか。
 やはりこんな上官など治療対象者ではないと言いたくなったが、とても言う勇気はなかった。・・・・・もう寝てしまおう。
 
 疲れきった少将の部下は、全てを放棄して眠ることに決めた。休養も任務の一つなのだから。
 
 

 
 人に刃物向けるな!貴重な物品に何すんだ!とまた怒られ不満な様子を隠そうともしない少将は、軍医が説教をしながらも、手元だけは優しいことを理解出来ないように眺めている。気色悪そうにもみえた。
「──てめぇみたいなドカスは初めてだ」
「あーはいはい、碌でもない衛生兵に当たって申し訳ありませんねぇ少将」
「・・・・ふん、別にもう。お前で我慢してやる」
「そーですか、諦めてくれてなによりです」
「──だが、もっとテメーは身綺麗にするべきだ、そうすれば少しは」
「だっから何処にそんな水と衣服があるんだっつーんですかね少・将・閣・下?」
「・・・っ!?カスがっ!もっと丁重に扱いやが」
「あーすいませーん鶏が鳴いてて聞こえないですー」
「・・・・・っ!ドカスがぁ!やはりテメェのような衛生」
「はーい横縫いまーす、いい加減黙りやがらねーと手元狂っちゃいますよー」
「ぐ・・・っ」
 
 麻酔無しで口元縫いつけんぞ。
 
 言外に針で脅して黙らせている。治療対象者に投げる付ける言葉ではとてもない気がしたが、死んでたまるかという気持ちを上げさせるような気概を感じたので、良しとしよう。
 
 
(じゃないと速攻で処分だろ、コラ)
 
 呆れてコロネロが突っ込んだ。
 痩せっぽちの衛生兵がまたやっちゃったー!と頭を抱える三十分前の出来事だった。
 
 
 
 

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