2013/01/05 17:17 鬼と呼ばれた仔が、初めて願い事をした日は、雪だった。 「なんでアンタ、俺なんかにまで優しくすんだよ」 そんな薄着だと風邪を引くだの、凍傷になってやしないかだのなんだのかんだの、色々と構って来る。それがむずむずとこそばゆいような、おかしな感覚を呼び起こす。恥ずかしいような、嬉しいような気持ちがない混ぜになる。ここは、居心地が良過ぎて逆に不安になる。 だからあの人に対する自分の中に湧く感情を全て鬱陶しいというものに書き換えた。 それ以上俺の中に踏み込むな。 懇願に似た動揺と共に掴まれた腕を振り払うと、沈黙が落ちた。 何も言わない相手に心臓だけが、どくりどくりとやけに大きく響く。いつもは何を言ったって、いらない位に返して来るのに。今はなにもない。 うるさいといってもそれは比喩で、実際のあの人の声はとても静かだし、穏やかでとても優しい。その耳に触りの良い声音は、ずっと聞いていたいほど心地良い。それを遮るようにしたのは自分なのに、勝手なことに不安を感じた。これでいいのだと、言い聞かせても身体は強張ったままだ。 でもそんなことを素直に伝える術など知らないし、知られてしまうことは嫌だった。弱みなど見せたくない。誰にだって知られてはいけなかった。怖かった。自分をよく思っていない輩がそれを知った時。この人をどうにかしてしまうのではないかと。恐れた。 (――違う、) 本当は、それよりも、この温かな存在に。もし、拒まれてしまったら。 それを知るのが恐かったのだ。想像するだけで身が震えた。 一度受け入れられた存在に拒否をされる恐怖。それがどれだけ恐ろしいものか。だから先に、自分から背を向けてしまえば、傷は軽くて済むやもしれない。そんな浅ましい考え事だった。 鬼子と恐れられた自分に温もりをくれる存在など、他に知らぬから、それがどんなものかはわからないけども。その時を思い浮かべるだけで、氷塊で背筋を擦られたような寒気を感じた。 知らぬ方がよかったかも知れない。 幾度となく思った。村人が男を訪ねに来て、偶々銀時を視界に入れた時など。ぞっとしたような顔をして目を逸らす。それは別にいい。当たり前のことだったから。そうでなく、その後に必ずといっていい程、男に向かって奇妙なものを見るような視線をやる。それが銀時には我慢ならなかった。 「先生は、随分と。奇異なことをなさる」 「そうでしょうか。私としては、なかなか上々の人生を歩んでいると自負しているのですが」 ぼそりと言った村人に、男は不思議そうに眼を瞬くが、直ぐにやんわりと笑う。 まるで好々爺のようにほけほけとするだけなので、村人の方も無駄だと悟ったのだろう。理解が出来ないとばかりに首を振りつつ帰っていった。あんな理解をしようともしない輩にわかるわけもない。当然だ。そんなこと、知りたいと思っている自分にさえわからないのだから。 木戸に寄り掛かり、会話を聞いていた銀時は、膝小僧と刀を抱えてぎゅうと丸くなった。 「そうですね、何故でしょう」 言われてみれば不思議ですと言っている男の声に、はっとする。逃げなければ。何故かそう思った。恐かった。 以前は、何も怖く恐くなどなかったのに。弱くなった。 ―違う。弱いから。俺はあそこにいたんだ。 行く当てのない、帰る処などない。人を喰う、鬼子。 どれだけ餓えても、焼け付くような渇きに苛まれても。それでも、人の骸だけには手をださなかったのだけれども。それでも人は自分を鬼子と云う。・・・ならば、そういうことなのだろう。 だから早く行かなければ。此処から去らなければ。そうでなければ、戻れない。戻れなくなる。 きっと、独りという孤独に。次は、堪えられない。 「愛おしいから」 「・・・・は、」 思わず男を見返した銀時に、あぁ、やっとこちらを向いてくれましたね。と、嬉しそうにする。 「銀時、私はあなたがとても、愛おしいんです」 「・・・・・・・っ」 だからだと思いますと、ゆるやかに微笑する。 ――・・・・嗚呼、もう。駄目だ。 逃げられない。 なんでアンタはそうなんだなんて、もう。わからなくていい。 なんでもいい。 なんでもいいから、だから、どうか。 俺を貴方の傍に置いてください。 当たり前のようにその願いを叶えてくれた人を奪われるまで、鬼仔はただの人の子供となった。 奇跡のような幸せが、彼をまた鬼にするまでの僅かな間。彼は確かにヒトだった。 再び鬼に戻った子供は、成長し、白い夜叉となった。二度と人に戻れなくても良い。あの人さえ帰ってくれさえすれば。 鬼は願った。 しかしその願いは届かず、ちらちらと舞う雪に塗れて鬼はふらと姿を消した。 もう二度と何も願うまい。そうひっそりと、心に決めて。 鬼はまた、独りになった。 「銀ちゃーん、これ何処置くアルかー?」 「あー?」 けほと埃塗れになった橙頭が覗く。それに眼をやってから手に持っているものにうわっと顔を顰めた。物凄い埃が溜まっている。こんもりと積もる程になっているそれは一見なんだかわからないものだった。廊下だというのに構わずぺぺっと埃を落として下さる少女を止める。 「おまっ、そんな年代ものどっから発掘してきたんだよ」 「銀ちゃんの押し入れアル」 「マジでか」 日頃からちゃんと片付けてないから云々かんぬんと言う銀時に、冷たい表情で神楽が言う。自身もすっかり被った埃を掃いつつ受け取ったものには全く見覚えは無かった。碁なんてやる趣味など持ち合わせていないのに。 「これも一緒に置いてあったヨー」 「へー、碁石まであったの?」 ひょいと同じく埃をうっすらと被った新八が覗き込んだ。年季は感じるが、随分と良い物のようである。銀さんのじゃないですよね?と聞くので俺にはこんな爺趣味ありませーんと答える。しかし妙に気になった。 「じゃあお登勢さんのですかね」 「そーかもな」 聞いてみて、売っても良かったら家計の足しになるかもしれませんねと言っている新八を軽く小突く。 「ったく近頃の若いもんには古いもんを大切にするっていう心意気がないのかねえ」 「腎臓まで売りそうになってたあんたに言われたくないわ! っていうか、どうしたんですか?いつもなら真っ先に売りに出そうなんて言いそうなのに」 「んー、別に?」 神楽が持っている木箱から、しろとくろの碁石をつまみ上げ、にっと笑う。 「偶にはお前等に日本の伝統でも教えてやろうかなと」 「それ遊ぶものアルか?」 「まぁ、ちょっとしたゲームだな」 「銀さんほんとにルールとか知ってるんですか?」 「おい駄眼鏡、人のことどんだけ馬鹿にしてんだ。囲碁位ババアだって知ってんだろ」 「結局お登勢さんに教わりに行くってことじゃないですか! 大体師走だっていうのに、お登勢さん暇じゃないと思いますけど」 「走り回る程忙しいのはどこぞのお偉いお師匠さんだけだろ。つまり場末のスナックのババアは暇だってことだ」 「・・・銀さんあんた、そろそろ止め刺されても知りませんからね」 「あー?囲碁ならボケ防止に丁度いいだろ。銀さんは親切から言ってあげてるんですからね。可哀想なババアに愛の手をってな。それにこうやって頼りにして機嫌とっときゃあ、また今月分の家賃滞納してたのだって忘れてくれるかもしれねえだろ。あ、ってことはボケさせといた方が俺には都合がいい?」 「――へぇ、誰がボケてるって?」 「「あ、」」 「げ!ばば」 「年のせいか耳が遠くなっちまった可哀想なババアに、詳しく説明して欲しいねえ。今、家賃がどうたらって聞えたみたいだけど。一体どういうことなのかをねぇ。――銀時?」 悲鳴が木霊した、師走。 何処かの何時だったかはよく覚えていないけども。 似ても似つかない筈なのに、確かに過ごしたあの時と、よく似ている毎日を過ごしている。 ボコボコにされ、路上にぶん投げられたというのに、笑いが込み上げて来た。 おまけにちらちらと舞い降りてきたものに、益々顔が弛んだ。これは普通の奴からすれば、踏んだり蹴ったりというやつじゃないだろうか。 「はーあ」 よっこらせと爺臭いことを言って立ち上がる。えらく腰をぶつけたらしく痛むのを摩りつつ、どうやってお登勢の機嫌を直すべきかと考える。いや、ここは素直に謝った方がよいだろうか。 (ま、それが一番難しいんだけどな) くっくと笑いつつ空を見上げる。吐息の熱でさえ簡単に消えてしまう、儚いもの。 何時だって、違ったように見えたこれは。今はとても綺麗に見える。 (・・・・・・・今ならちっと位は、わかるよ) 先生。 アンタが俺を、愛しんでくれた訳を。 嘗て鬼と呼ばれた男が、初めて願い事をした日は、雪だった。 霜焼けが酷い指先を隠した袖の下で、必死に手を合せて願っていた、あの日。 確かに男は幸福だった。 それは今も、変わらない。 comment (0) |