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小ネタ
2012/12/25 17:39



 白き大地。

 美しき彼の地は異邦者を嫌う。
 ならず者が足を踏み入れなと、吠えるように雪氷の嵐を気儘に身に纏う。

 誰が言ったか、その純白の絶望は白き地獄だという。



 それを知ってか知らずか、時に地から天へ吹き上げる氷片を踏み付け、彼はいた。
 毛布を幾重にもした防寒具に、凍土に染みのようにはためく漆黒の外套。唯一微かに覗く瞳に宿るは、この地とは真逆のような暁。

 しかし、その研磨された剣の鋭さを持った琥珀は、彼が立つ雪原と同じ熱しか知らなかった。


























「取れ」
「・・・・は、」

 それまで流暢に話していた男は、そこで初めて言葉を止めた。それまで白々しい面持ちで話を聞いていたのだろう控えの者まで会話に意識を傾けている。こちらを見ていない。だが確実に視線を感じた。見るな、たかが士官無勢が。内にて毒付くが突き刺さる視線は消えない。

「聞こえなかったか」
「は、いえ。しかし」
 意味のない回答。じわりじわりと意識してきたのだろう。背に嫌な汗感じた。碌な水も取っていなかった筈だのに。
 男からは湯気が出ていた。細末な水分でさえ熱があれば蒸気に変える。それが眼に映る程の極寒。そこで生じた瓦斯。敵から奪ったもの検分している際、誤って割った瓶から発生したものだった。恐らく毒を含んでいるであろうことが知れるようにパタパタと人が倒れ、大隊は普段の訓練など忘れたような混乱に陥りかけた。

『総員直ちに面を装着しろ』

 それを一声にて収め、指揮を執った男がいた。







 男と言うには小柄な。少年というには少しの若さも感じぬ瞳を持った青年だった。その凍てついた眼差しに晒され、兵達はすっと冷静さを取り戻した。それは躾けられた犬の如く。
 あの瞳には逆らうべからず。本能にも似たものが警告を鳴らし、彼等をいつもの俊敏な動きへと戻した。多少からずとも吸ってしまったものや昏倒したもの。幾人かの者達を療養室へ収容してからまた指示に従う。決して慕っている訳ではないが、この人に従っていれば命を落とすこともない。敬慕でも憧憬でもない、畏怖という感情。それのみを持った兵達は彼の手足のように細々と働いた。

「お見事です」
「・・・・・・・・」
 凍てついた瞳がちらとだけ動き、また元へ戻る。それが不満だったのか、些か不快そうに眼を細める。しかし次にはまた張りつけた笑みを浮かべ、指揮官へ近寄った。階級だけは上なのだ。従う振りでもしてやらねばなるまい。男はまだ年若い上官を下に見ていた。

「疲弊し限界だった中に起きた混乱。それを一声だけで収めてどうにかされるとは、流石でありますなぁ」
「用は」

 手元の地図をぱらりと捲り、大きくはないがくぐもってもいない声音を返す。余計な干渉を向けるなという無言の拒絶にむっとしたようにしながらも男は言う。

「さりとて瓦斯の騒動が上がって数刻。いつまでも面を被っていても仕方ありません。視界は最悪な上に閉塞感が有り、なにより自分が何時死に至るのかわからない。といったような余計な精神的緊張を受けているのだと、ずっと体感していなければならない。これは上手くありません」
「用は」
「・・・・・・・ですからそろそろ、人で。試してみては、と申し上げているのです」

 端的にしか返さぬ指揮官に、男は苛立ちの籠った笑みを返した。ここまで言わぬとわからぬのか。皮肉の籠ったものだった。遠まわしにしか言を述べぬ男に、また別に傍に控えていた少年は不快露わに眉間に皺を寄せた。彼が何も言わぬのは今に始まったことではないし、彼の考えあってのことだ。貴様に言われるまでもない。言いたくなるのを堪える。指揮官である彼が何も言わぬことを、自分如きが進言する必要はない。少年は自分の立場を理解していた。知らぬはこの先程から軽い口ばかりを叩く頭の悪い、最近赴任してきた男だけだ。
 左遷でもされてきたのだろう。そうとわかる鼻持ちならない男だった。自分達下のものが馬鹿にされ、手を上げられる程度なら我慢もする。しかし、必要最低限しかものを言わぬ上官を、無能だと勘違いし、軽んじている。それが何とも我慢ならなかった。
 配下の少年の憤りを感じとったのか、男が痺れを切らす前に、指揮官はやっと口を開いた。
「そうだな」
「はい。もう適当なものは身繕ってありますので、今から」
「いい」

 よく、しゃべる男だ。指揮官である青年はぽつと思った。ゆるりと、初めて向けられた視線に、男は些かたじろぎ、知らず顔を赤らめた。面越しでも伝わるその眼光。敵国の蛮族と同じと影で男がせせら笑っていたそれは、酷く凍えた美しさを放っていた。蠱惑的、とでも言うのだろうか。焦がれるあまりに触れられないことに嫉妬した者があることないことを言いふらしたというのもあながち嘘でもないのかもしれない。不快を伴ったものでもいい、嫌悪に塗れていても。こちらを、自分を視界に入れてくれさえすれば。そんな願望を持ったものが後を立たなかったというが、死神と呼ばれるその指揮官にさして興味がなかった男は鼻で笑っていたのだが。

 その指揮官が言い放った言葉に、今男は苦しめられていた。寒い筈なのに、酷く汗をかいていた。暑ささえ感じる。だのに腹の奥は底冷えするようだった。口がいつものように動かない。全てこの口だけで上まで来たような男だった。碌な戦術も腕もない。ただ狡賢く動くことにかけてはよく回る頭はあった。矮小な自尊心。こんなところで終わるべき人間ではないし、くたばってやるつもりもなかった。そんなものだけがいつも男を満たし、ここまで男を生かしてきた。どんな輩も上手く持ち上げそれなりの、薄っぺらいものでも誰かの手柄であっても己の功績だと言い張れば頷き自分の踏み台となった。
(それが、アイツの所為で・・・・・っ)

 眼前に浮かんだのは黒尽くめの男。全てを手に入れいつまでも自分の上に立つ男。今、こんな敵地の真っただ中に自分が飛ばされた原因でもあるしこんな若造に顎で扱き使われている害悪でもあった。

「中尉」
「・・・・・・・っ」

 狂おしい程に憎かった。奴を地べたに引き摺り降ろすまではどうあっても、死ぬわけにはいかないと。
 眼の前で無情に言い放つ餓鬼があの男にぶれて重なる。似ても似つかない子供であるのに。こんな戦地でも泰然としていることが許せなかった。もっと人間らしく、餓鬼らしく怯えでもすればまだ可愛げがあったものを。

「・・・冗談ではありません、何故、私が、」
「聞こえなかったのか」

 静かなだけな声の筈なのに、気押される。息が詰まった。震える手で、己の面に手を伸ばし、

「・・・・・・っ、くそ」
「!」

 逃げ出した男に、傍に控えていた少年が追おうとするが、それを司令官が手振りで止めた。しかしと言い募る前に聞こえた銃声。まさかとは思うが、どうやら外壁から飛び降りたらしかった。外から聞こえた飛び交う言葉に、少年は複雑な気持ちになった。
 氷壁に覆われた難攻不落の城壁。岩と氷雪で出来た壁に守られてはいるが、一歩間違えば敵とそれよりも恐ろしい極寒の大地に全てを奪われる。
 
「・・・・・・・雪で積もった溜まりにでも落ちれば、助かると踏んだんだろう」
「しかし、それでも」
「そこまで愚かではない男だったと、俺は思う」
「・・・・・・・」
 
 どんな時でも、雪国の小動物でさえ逃さない敵からの眼に、逃れられると思ったのだろうか。
 そんな少年の疑問に、指揮官はぽつりと答え、また何事もなかったかのように地図を手に取った。この極寒の大地にじわりじわりと蝕まれるよりも、きっと敵の手によって落ちる方が楽だと算段しただけなのだろう。それ程に、こちらの命に従うことを拒んだだけのこと。あの男は、自分の命でない何かから、逃れようとしているようにも見えたのだが。今となってはわからないことだ。

 黙ってしまった指揮官に、少年は何か言いたげな視線を向けたが、それに関しては結局は口を閉じることにした。

「瓦斯の件ですが、拙者で良ければ面を外しますが」
「駄目だ」
「は、」

 指揮官が直ぐ様否定を入れたことに頭を下げる。予想しての進言だったが、それを少し嬉しく感じている自分もいた。勿論命じられれば一、二もなく自分は面を外すが、それを彼は許さない。情というものではなく、それ以外に自分に使い道があるからという考えからだ。自分の上官は決して情だけに左右される人間ではない。かといって無情でもない。どちらにせよ、顔は正直だ。認められているということが嬉しく、緩みそうになる顔を引き締め、では誰をと聞けば、面を付けていることに根を上げた者にでも命じろと返ってきた。そんなものは、長年彼の指揮下において付いて来た中に誰もいる筈がない。わかっているだろうに言う。

「そうでなければ俺が」
「少佐」
「・・・・・・・・・・またその時は、別に命じる」

 ご自分の立場を考えて発言なさって下さい。何度言われたかわからないことを思い出したのか、ぐっと詰まった指揮官は、ふいと視線を逸らした。下士官の者が知ったら仰天するようなことだったが、慣れているのか、少年はにこりと笑って敬礼をとった。










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