催花雨


答えなど求めていなかった、ただ永遠にその問いの解いを伴に模索していることで良かったんだ――彼女に返す言葉がなかった、といっても彼女に返してやれたところでもう無意味なことであっただろう――ただ笑う君に。
夕凪が心地好いい。こんな日は気の向くまま、心行くまま泳いで散策したいものだ――青年はそう思いながら、大樹に抱かれた宮殿の廊下を歩いていた。手足がすらっとした長身に腰まで伸びた緑の髪は柔らに揺れる。切れ長の涼しい碧の瞳。身体に巻きつけて垂れ流す白い一枚布の着物が木漏れ日を受けて複雑な光沢を放っている。艶やかな大理石で出来た廊下の両脇は水路があり、水中に散りばめられた翡翠や玻璃もきらきらと輝いていた。


テオ・テェガを構成するのは有翼人と有鱗人という二つの種族である。文字どおり翼のある人間と鱗のある人間のことだ。この国は実に見事にこの二つの種族が住み分けをしていた。そもそも国土の大半を川、湖を含む湿地、水上の原生林が占めている。水中を有鱗人が木上を有翼人、数少ない陸地は両種の政の地となっていた。そして、もっとも稀有なのはこの国の王という存在だった。それは神の贄。血統などではない。自国、種族もない。何の関係もしがらみもなく単純に唯一無二の神が気儘に選ぶ。いや、気儘は語弊があるが、かのモノが気に入らないと駄目なのだ。この国を守護するのはそんなきまぐれな化け物なのである。


鈴が鳴る。右は玻璃、中央は白銀、左は翡翠。幾重にも垂れる薄い紗の奥の玉座に座るのはうら若い乙女、それも白い羽の生えた。髪は金。瞳の色は湖の色。朝日を受けて輝く水の色――そんな不思議な色彩だった。血の気の失せた青白い肌に細い四肢。力ない表情を張り付けた棒人形のようでこのまま崩れ落ちてしまうのではないかと心配になる。華奢な躰には重すぎるほどの金属の装飾は一見すれば雅で豪華ではあるが、違う角度から見ればまるで枷だ、動きを制限して玉座に縛り付けておく。女の名を殆どの人が知らない。いや、要らないのだ、王となってしまった彼女には。吐息が漏れる音がした。飾りの、布の、擦れる音すら響く。ここへルルイが足を踏みいれてから少なくとも半刻は過ぎている。ただ、ぼんやりと流されてしまった。
「あ……ルルイ? いらしたの?」
呼んだのはそちらではないか、とはおくびにも出せなかった。左の腕に白い布が巻かれているのが目についていたから。咄嗟に瞳を伏せ、そのことから目を背けた。
「ああわたしが呼んだのね」
おもむろに薄く笑む。それが彼女の精一杯だったのだろう。浅く息を吐く。直立不動のルルイからわずかに視線を逸らしてみて、射し込む陽光に目を細めた。それから直って、も一度、
「今日ね、とても調子がよさそうだったの」
問いかけてもルルイの視線は床を捉えたまま動かない。彼女もルルイを視界から外そうとする。奇妙な空気が漂う。
「でも少しだけ……なんか勘違いをしてたみたい」
小さな呻き声が漏れた後、彼女は大きく息を吐いた。立とうとしてたらしい。なんとなくルルイにはそれがわかった。耐えきれずルルイは顔を上げて口を出した。
「……そちらに、参りましょうか?」
「え?」
「もう少し近く、お側に寄っても宜しいでしょうか?」
ルルイの言葉に頷きながら彼女は目一杯の笑みを浮かべようとした。
「あのね、そろそろマゲイが」
そこで区切る。深い意味があったわけではない。ただそのとき一気に言えなかっただけ。その水晶の如く空ろだけど澄んだ瞳に泪を溜めて、また精一杯、
「かの白い花が綺麗に咲くころではないでしょうか?」
「……そうですね」
「ですから、その」
「選りすぐったものを一枝差し入れさせましょうか。二、三輪咲いてるくらいで、膨らんだ蕾が多くついてるのがいいでしょう。さすれば、奇麗な咲き姿を楽しむことができるかと」
「そうね……きっとそうね」
「では、そのように手配しましょう。……ただ、あれはああと……いつも口酸っぱく言っておりますが」
そう穏やかに言ったルルイは口元の形を隠すように視線を下に向けた。彼女も目を細める。小さな咳を溢し、
「色には気をつけろ、わかっているわ。ありがとうございます。いつも」
「いえ」
「それでは、気をつけ……」
鐘の音がした。清澄で鋭利な、蒼く冷たい夜に浮かぶ三日月を想わせる。同時に彼女の表情から感情が落ちていく。
「あ……いえ、いいわ」
がしゃん、と無機質な音が響いて娘の隣で人形の首がもげた。コロコロと転がってった首はちょうど顔を出した白い翼の少年に拾われた。彼の青い瞳はルルイを捕らえていた。


 大きな扉が開かれる、その奥にはまだ閉じられたままのさらに巨大な扉が、そこから不思議な獣の咆哮が聞こえた気がした。それは甲高い鐘の音にも、地を這って轟くオオボエにも、世を支配するあらゆる音による重奏。耳を塞いだところで無意味に、それは凶悪で最奥へと浸透し、さらに反響し続ける。古からの畏怖がそこには横たわる。


ルルイは水面に身体を沈めた。少しばかり出過ぎた。心中悪態をついて、目を閉じる。目蓋の裏に焼き付いた憎き仇敵がこれ見よがしとせせら笑う。見目だけならばそれはそれは麗しい天使であろうに。あの青年の性根は腐っている。自分は間違ってない。あのとき、他の選択肢を選んでいたらどうなっていたかは考えるなんてことはしない。水が冷たい。あとで花の図録を書き出したものを用意しなければ。
その日は突然の召集がかかって皆が慌しかった。勿論、ルルイも例外でなかった。ついに限界がきてしまったのか。それとも何かのきまぐれを起こしたか。後者であってくれとルルイは願った。けれどもそのどちらも違った。告げられたのは有翼族の名家御曹司の婚約だった。たかがそんなことで呼び出さないでほしいとルルイは顔を歪めた。それもよりによって彼とは――悪夢は正夢だったか。ルルイは密かに玉座の方へ視線を遣った。幾重にも垂れ下がった紗に遮られ、彼女の姿は窺えなかったが容易に想像出来た。きっと、あの顔だ。あの感情がどこかへいってしまったままの薄っすら笑った顔。音も光も凍りつく昏い色を孕む眸と白すぎる面、完璧な角度に吊り上がった口元。はじめて遭い見えたときあまりの恐怖に、息をしていないような感覚を覚えた。
「ルルイ?」
「なんでもない」
声を掛けてくれた同僚をすげなくあしらう。
「余計なお世話だろうけど疲れてんじゃない?」
黙ったままでいるルルイを余所に続ける。
「もう聞き流してくれ。そうだ、ついでにこれも……このあいだの少年を主神殿で預かると決めたそうだ」
「あれは迷い込んだだけの少年ではないのか」
「さあどうだかな。でも本物と見て間違いないんだろう」
前を見据えたまま、二人の会話は続く。
「お前がどう思ってるのかはわからないが、ほとんどが好意的だぞ。王にも良い影響があるかもしれないとな。このままではあの王は持って三月の状態だ」
ルルイは伏せたままでいた視線を上げてみた。もうそこに彼女はいない。
「第一、王があんな不安定な状態ではいつ癇癪を起すかわからない」
「代理か……そもそも王に親類縁者はいないと聞いてたが」
「そんなところで来てくれたのは僥倖か。でもまだ代理を用意することもないだろうって、まあ、そこがな……それにあの子に代理させる気もなさそうなんだよな」
彼はそういって小首を傾げながら、指で何かを数え、
「とりあえずここを出ないか、もういる必要ないだろう」
ルルイはそのまま彼に促されて退室することにした。


まだ日は高く、燦燦と降り注いでいる。天井はなかったが、新緑の網が張っていて、地表が受ける日差しは柔らかい。足だけを
冷水に浸し、ルルイは手入れされた池の淵に腰をおろした。
「ねえルルイ?」
ここへ連れてきてくれた彼――ユイツは律儀にお茶一式を用意してルルイの隣に座った。硝子の茶道具に注がれた清涼感ある薄緑色に白い花が浮かんでいる。
「お前、少し休みをとったらどうだ?」
手に取った椀の花を見つめていたルルイはきょとんとして、顔を上げた。
「助言ね、有難く聞け」
ニコニコと彼はルルイの鼻前に指を突き付けた。そして呆れ顔のルルイににっこり笑って言った。
「俺が見てもわかるってことはお前相当参ってる」
ルルイは怪訝そうに眉を顰めた。
「そんな顔してもなあ……隠せてないぞ。さっきからなあ」
隣に腰をおろして、
「そんな顔ってどういう顔だ?」
「まず顔色かな。血色が悪すぎる」
「それは有鱗族だからだろう……お前達に比べたら体温が低いんだ、色もあまりよくなくみえるんだろう」
「いつも以上に皺が深くて厳しい」
「別にいつもと変わらない」
「隈がくっきりだぞ」
ルルイはもう反論しなかった。目頭を押さえて深く長い嘆息を吐いた。そんなルルイの姿を見て、ユイツはそっと言った。
「あのな、お前がだめになったら困るの他でもない俺なんだ」
――だからな、と呟くように足して。
「お前だけは一人倒れないでくれよ」


 白い翼の少年は綺麗な白い蕾花を両手いっぱいに抱えて、足取りも軽やかに廊下を歩いていた。ルルイは彼とすれ違ったとき、ふと薄ら嗅ぎなれない甘い匂いが鼻についた。いや、一度だけ嗅いだことがある。この匂いは確か――。
「おい待て……それはなんだ」
「え? なにって……頼んだんです、それで貰ったんです。綺麗でしょ。飾ったらきっといいですよ。きっとおば様の気分もよくなります」
少年は無邪気にいう。
「おば様とてもお疲れのようでしたから……僕と同じでお花が好きって聞いて」
「捨てろ」
酷く低い心のこもってない声が出たものだ――ルルイはその一声をすぐ後悔したが、止めることは出来なかった。自体は一刻を争うかもしれないものだった。
「はやくこちらに寄こせ、処分する。君はすぐ――」
始めは怯えた様子だった少年はキッとルルイをねめつけて、
「なんで! 嫌です! せっかく頂いたんですよ!」
「だめだ!」
ビクリ少年の肩が跳ねる。そして突然、咳込みはじめた。膝ががくんと折れ、抱えていた白い花と桃色の蕾が床に散らばる。大きな碧い目は充血し、瞬きするたびに涙が零れる。額にじわりと汗が滲み、喉を抑える手も小刻みに震えている。渇いた嫌な呼吸音。垂れた唾液には少し血が混じっていた。咄嗟にルルイは身に着けていた腰布を解いて散らばった花々を拾い集め包み、同じく腰についていた水袋に小瓶、小瓶の栓を口で抜き中の液体を水袋に入れ、振って混ぜて、それをかけた。残った水を少年にも容赦なくかけて羽織っていたマントで少年にくるみ、抱え上げて駆け出した。


「……ねえルルイ」
ユイツの第一声は嘆息まじりだった。
「君はなにをやってるんだ……記憶違いじゃなければ君、休暇だったよね」
返す言葉が見つからないルルイは視線をすっとずらした。
薄い紗が垂れ下がり、淡い青に包まれた寝台に少年は寝かされている。その隣でルルイは床に座らされていた。眼前に立つはユイツである。他にもせっせと彼らの横で侍従が動いていた。
「とりあえず、まあ幾らかは置いといて……迅速な判断と処置はよくやった。ほんとたまたまとは、うまく」
「うまくやれたか?」
ルルイはそうっと少年をうかがい見ようと翡翠の視線を流した。
「大丈夫だよ。あの子は大丈夫」
ルルイはホッと息を漏らした。その様子にユイツも表情を少しだけ和らげるが、
「でも、ちょっといいかな? 君は花には詳しいのか?」
表情厳しく問質す。
「いや並みの知識しかないと思う」
「そうか、よく助けられたな」
「……たまたまあれらはよく知ってただけだ」
何を思案しているのか、いつも皺ひとつないユイツ自慢の尊顔がいかましく別人のようにみえた。ルルイは自分の裾にくっついてた黄色い小さな花弁を払った。マゲイの花の残骸である。少年が抱えていたのはこの花であった。この時季が花盛りである。純白と黄色の小ぶりで愛らしい花を目いっぱいほころばせる、テオ・テェガでは馴染み深い植物だった。
「どういう経緯でこの子はあの花に触れたと思う?」
「花束を抱えていた。その中に混じっていたのではないのか」
白と黄と、桃――いや赤かった。マゲイによく似た赤い花。
「それが見当たらなくてね。ただ君の対処法は効いたことだし、なにより症状見ても間違いはないんだろうけど……肝心なところそれが出てこないようで困ってる」
「本当に見逃したということはないのか。結構な数を抱えてたぞ」
「ふむそうだと思いたいんだけどね。そもそもこの花束の入手経路を調べなければならないんだよね」
「そんなの自分で……ああ……貰ったと言ってた」
「そうか。うーんたしかに誰かさんの手を借りなければ……この子はそんなに自由はなかっと思うけど、どうなんだろう……詳しく調べるだろうか」
当人が昏々と眠り続けているのをいいことに二人は続ける。
「そもそも……なんであの子が花を?」
「おば……王の為に花を頼んだと言っていたが」
「へえ、思いつきかな。健気にも元気出させてあげようとしたってこと? 王様と甥叔母でお互い仲良くやってたから……君はそこらへん見てないんだっけ? ほんとほのぼのしててこっちまでほっこりするもんだよ。二人でいる景色なんて、まるで――」
ユイツは言いかけて、
「いや、君は知らなくていいかな」
柔らかく、しかしきっぱりと言った。


 神官はそれぞれ庭つきの個室を宮殿内に与えられてる。ルルイの部屋はもっとも東にあった。そこに移動して、しばらくは待機を言い渡された。念のためにつけられた監視は神官見習いのエウケという有鱗族の少年だった。知らぬ間柄の少年ではなかったのは配慮だろうか。ルルイは重たい瞼をこすった。
「なにやってるんですか? 兄様は御自らことあるごとに厄介を背負うのがお好きになってしまったご様子で」
ずいぶん小言をいうようになってしまった、ここらへんはあの姉に似てしまったのだろう――ルルイは嘆息をついた。
「母様もよく仰ってました。気づけば大きな渦のど真ん中をふてぶてしい態度と素知らぬ顔で闊歩しているようだと、よくエバガを摘んで大騒ぎの常習犯」
エウケはルルイの姉の息子、つまり甥なのである。
「聞いてます? 兄様?」
相変わらずなルルイの表情にエウケはなんとも複雑な顔をして眉間を人差し指で押さえた。それが姉にそっくりだったもので瞬間的にルルイは噴き出してしまった。
「なんですかあ! その態度は!」
「入ってもいいかな?」
「ユイツ様!」
目を輝かせてエウケは飛び出す。困り顔を作ってユイツは彼を受け止めた。
「おっとエウケ。いきなりは危ないじゃないかな。元気なのはいいことだけどね」
一言一言優しく語りかけるユイツにエウケの青白い頬は一気に赤く染まった。まったく悪趣味な光景だ――ルルイは思った。
「おじさんはいいこにしてたかな?」
「ぜんっぜん!」
「そうか、しょーもないおじさんを持つと大変だな」
「ほんとですね!」
付き合ってられないとルルイは深く椅子に沈む。
「で、兄様は大丈夫なんでしょうか? もしあの方に……もし、そのもしもがあったらどうなりましょう?」
「もしもはもうないよ。ちゃんと診てもらって大事はないとでたからね。ルルイは……大丈夫だろう」
ちらりとユイツはルルイを一瞥する。固く目を閉じた彼の姿にクスリと笑みを漏らす。
「そうだエウケ、お使いを頼めるかな。ここに書いてある薬草をそろえて俺の室に届けておいてくれ」
裾から取り出した紙を渡す。
「……これ、ちょっと時間かかりそうですけど」
「今日中にお願いしたいんだけど、ダメか?」
「うぬ、わかりました。あ、こんな兄様ですが、よろしくお願いします。兄様もわかってますね。では、ここで失礼します!」
元気な声が離れていく。ルルイは深く一息ついて、ユイツをねめつけた。
「反省している顔じゃないね、まったく」
「悪いが、反省することがない」
「愛らしい甥っ子がいるのは羨ましいんだけど」
「いないわけじゃないだろう、大家族」
「ところがどっこい、いないんだよ。うちはどういうわけが女の子ばかりだからね。知らなかったかい? 姉に妹、姪に、伯母叔母と……数少ない男衆は肩身が狭いんです」
そこからさらに続くユイツの小言にルルイは何度も深く首肯させられた。


薄く敷かれたきめ細かな白砂を上を素足で歩く、大理石と御影石の冷たさが直に伝わる。ほんのり湿った布が身体に張り付いて、その艶かしい曲線を、細さも、露わにする。シャンシャンと鈴が鳴る。扉が開く合図だ。その音を聞いて彼女はその場にへたり込んでしまった。
「おや」
「……あっ……」
視線が交差して一拍。
「大丈夫ですか?」
ユイツはさも平時を装って声をかけた。不思議な匂いが鼻腔をくすぐる。咄嗟に裾で鼻を覆った。
「……大事ないです」
彼女は淡泊に答えた。王座に居れば付与される飾りは全部剥がされている。赤や紫の刻印はしっかり残されている、おそらくは目には見えぬ痕跡も目の届かない痕跡もある。そう、いくら全ての枷が外れたとはいえこの娘は動ける容態ではなかったはずだが。
「御座に戻られますか?」
密に唇を噛む動作があった。珍しい抵抗にユイツはしばしば感心した。ずいぶんと強情な方だ、とルルイはちょくちょく評していたがこういうことであったか。こんなところをお目にかかれるとは――ただあまり良い方向ではないけれど。
「戻ることをお勧めしますよ」
目尻の赤みが強くなる、反対に噛み締められた唇は色を失っていく。突然、藻掻きはじめる。まるで産み落とされた小鹿のよう。小気味悪くてルルイは顔を顰めた。
「これはなにを焚いたのか?」
その問いにすとん、と不格好に動くのをやめる。ユイツも正しく返答があるとは思ってなかった。女はただ虚ろな様子で、
「あれは誰だった?」
「え?」
「こうすればなんでも思い通りになってくれるの」
ルルイを置いてきたのは正解だったようだ。誰かが彼女の耳に不穏な囁きをしたのだろう。しかし、皆目見当がつかない。先の件といい。一体、なにが――ユイツは彼女を気絶させて一人険しい顔を作った。


白い布の向こうで少年は悔しくて、痛くなるほど唇を噛みしめた。嗚咽を殺せても、ほとほと、と泪は零れる。下を向くのを止めようにも顔を上げられる気分ではない。誰もいないことだけが救いだった。こんな姿を見られるくらいなら死んだほうがマシだ。自分がなにをした少年はわかっていた。叔母を、自分を受け入れようとしてくれていた人にまた害為そうとしていたのだ。故意ではない。まったく故意では。


玉座に娘が置かれている。その意識なく白い布で身体を縛り付けられて。空間は静謐に包まれていた。霧のヴェールはあらゆる境を曖昧にする。鈴の音が反響した。今、生きている者では彼女だけ知ってる音だった。どこまでも澄んでいて優しく身心に沁みこんでいく。それに反応して薄っすらとした意識は覚醒していく。あらゆる邪の靄を払うように這いずってくる小さな躯があった。ひんやりとした鱗。温い羽毛。感情を示すことのない眸。羽を従えた鋭い爪。女の冷たいつま先をチロリと舐めた。それを合図に娘は目を覚ます。無垢な赤子の如く破顔した娘はゆっくりと口を動かした、鈴を転がすような声で、
「ちょうど逢いたかったの。来てくれてありがとう」

 
もうすぐ空を覆う影が現れる。あの黒いやつらは律儀で決まった時刻に襲来する。長椅子に座ったルルイは窓をねめつけた。
「もうこんな時間になるのか」
日が長い時季だ。もう夕刻であるが外は充分明るい。それでもテオの蝙蝠達の時計は寸分も狂うことがない。
「祭壇の番はどうすればいい」
今宵は寝ずの番であったはずだ。平素ならば務めの準備に入る頃合いか。そのところはどうなっているだろう。わざわざ人を呼んで聞きだす気もないが。ユイツは戻ってこないものか。窓が叩かれる音がする。視線を向けると黒い小さな影が硝子をどついていた。ずいぶんと小柄な個体だった。透明な板を認識できないのだろうか。それとも力ずくでしか物事を考えられないのか。学習能力あるくせして――ルルイは脳内小言を並べながら、
「致し方ない」
こちら側からも窓を叩いてみる。一旦、頭突きを取りやめ、いっちょ前にシャーと挨拶代わりに威嚇して始めた。窓の縁に青い点々で出来ている。段々、声にも張りがなくって、息も短く、脱力していく小さな身体。
「また怪我でもしてるのか」
ルルイは長い嘆息を吐くと、意を決して窓枠に手をかけた。


年老いた神官の言葉は拾えないことがある。経験豊かだという神官は多くに置いて頑なだ。ユイツはうんざりするほど丁寧に彼らを扱ってきたつもりだった。今回も例外なく。でも、まったくの徒労だったらしい。この事態を理解することを放棄しているようにユイツには感じた。集まって井戸端会議。ルルイの処遇に対しても、少年の身に降りかかったことも、王のことも、それら一環した事件、大事件だというのに。普段なら笑顔で流せる些事も、耐えがたき苦痛に感じた。ユイツは、心中毒づいた――己に。握り拳を作って、自制する方法は幾らでも知ってる。答えが合うまで瞳を閉じて、ひたすらに時をつぶした。


「お前はなにをやってるんだい」
疲労困憊なユイツの第一声にルルイは小首を傾げて、手の中のものを差し出した。
「どうしたんだ? 噛まれたら大変だろう」
「噛まれても痛いだけですむ。こいつ、怪我をしててな」
平然と答えるルルイはその生き物の顎を撫でてやる。どうみても懐きそうな顔ではない。むすっとしている。知能の高い生き物なのだろうか、抵抗が得策ではないと判断しているのか。それとも、余力がないだけか。なにかで麻痺してるのか。とにかく今は術を失っているから嫌々でも従っているのだと全身で発していた。その小さな生き物に威嚇されたユイツは渇いた笑い声を漏らした。
「さてそいつはわかったから。明日には戻っていいそうだ」
「戻る? どこまで?」
「普段通りでいい。元々お前は偶々そこに立ち合わせただけ、だろう」
ルルイは無言でユイツを見つめた。
「あの子ね……ああナコト、あの甥っ子君」
ユイツは慎重にルルイの様子を窺った。小さな生き物と戯れてる。さっきとはだいぶ態度が違う、これは――とユイツは呆れた。
「こっそりと抜け出してあの花摘んでたんだって、だから誰かはいなかったということに結論はなった。あの子一人が起こしたこと、と。ただ叔母さんを元気づけようとしただけで悪意はなかっただろうって。なによりあの子に何かあったと知ったら不安定な彼女がどうなるかわからないから不問だそうだよ」
ルルイはぽつりとなにかを溢した。
「ルルイ、ひょっとして不満?」
瞬間だけこちらに視線を投げかけて、そのまま伏せて陰へ。なにかあるのははっきりしている、それなのになにもこちらには答える気がない。ユイツは奇妙な違和感を抱いて、それに苛ついた。
「そんなことだろうとは思ってただけだ」
ルルイは静かに嗤っていた。
事件は結局、有耶無耶で終わった。



はじめてルルイが彼女と出合ったのは、怪我をした彼女の治療に付き添いだった。王になる前の彼女は許嫁に会うために神殿に訪れていたのだ。いつもどおり静かで厳かな風が吹き抜けるはずの日だった。彼女の怪我自体は大したことはなかった。ただ派手に血が出ただけ。新雪のような彼女にはそれが実によく映えた。だから周りは必要以上に騒いだのだ。ルルイは久しぶりの喧騒に驚いて、その日のことをよく覚えている。周りをそっと見渡したあと、彼女が浮かべた刹那の表情なんて忘れることができなかった。そう。


//

拍手 戻る



人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -