催花雨


 オアシスにぽつりと蒼の孤城と呼ばれるの城の主人――ユディトは今日も一人で滸を歩いている。日課になりつつある散策はいつも違う道をいく。飽き性であるのをユディト本人自覚してる。継続させるために工夫した。決めたら何があってもやり遂げる――この真逆ととも取れる性質を利用して、まずこの日まではやるという具合に。雨の日にでかけたのは流石に周りから呆れられたが。思い返して、ユディトはくすりと微笑った。
「主様! 主様ぁ!」
あら――とユディトは自分を呼ぶ叫びにも似た声に振り返る。
「どうした? えっと……シュガル」
少年の姿を暗紅色の瞳ではっきりと確認してからユディトはまた「シュガル」と呼んだ。
「はぁい!」
元気よく返事する彼の頭をぽんぽんする。くすんだ鬱金色の柔らかい髪の触り心地は本日も問題ない。ふとその手を彼の頬に沿えて自分の方に向かせた。シュガルの背はユディトの胸元までしかない。つまり彼は仰がされる態になる。
「シュガル……あまり困らせるでないよ」
その一言にぷーと頬を膨らませるシュガル。灰みがかった明るい赤色の双眸を揺らす愛らしい少年の姿に一笑。
「今度はなにから逃げてきたんですかね」
首を傾げ、
「サラーからですか?」
「違う!」
「ではナギアですね」
「違うの! ちょっとしたことが……」
渋面を作るシュガルの両頬をつねり引っ張った。
「いたぁい、痛いです」
「お前はなぜそうやって問題を起こすとこの私のところに来るんですか?」
「離してください!」
ひとまず離す。シュガルは自分の頬を擦りながら、
「問題なんて起こしてないよ」
「左様ですか」
「そんな目で見ないでよ」
軽口を叩きながら、シュガルはゆっくりその場所を離れようとしていた。それを許すわけないユディトに腕をがっちりと捕まれる。
「では行きましょう」
「どこにですか?」
「東の四阿ですよ」
シュガルは苦虫を潰したような顔をして、ユディトの手を振り切ろうと藻掻いた。その様子に微笑みながら、
「ほら、なんの問題もないのであれば」
パッと腕を離して、
「よいではありませんか」
「よくないんだよ!」
絶叫するシュガルに豆鉄砲を食らいつつ、ユディトは怪訝な視線を遣った。
「だから何してきたんですか? 早く白状したほうが身のためですよ。ちなみにわたしは今九割お前じゃない側に傾いてますから」
「なにも、ほんとになにも……」
目が泳ぎっぱなしのくせにまだ言うか――ユディトは呆れかえり、嘆息をついた。
「まあ部屋に戻りましょうか」


ユディトは自室に戻った。シュガルを引っ張っていった先に予期せぬ天敵が待ち構えていたのだ。思わず、全て心内が無遠慮に顔に出てしまった。それを見た相手も同じく不仕付けに厭な表情を露わにした。その隙にシュガルはそっと離れた。
「ちゃんと書類は捌いてるご様子、感心歓心」
「そなたがわざわざ足を運んでくるとは、そちらはずいぶん暇を持て余してるのかしら? ねえ、ベルデ」
視線が混じったのはお互いを確認した一度だけ。
「ほんとに何用なの?」
「小僧はどこだ?」
「悪いけど私のところにはそれに当てはまるのが幾人かいるわ、ちゃんとはっきり言いなさい。で、どの小僧?」
歯切れの悪い唸り声が部屋に響く。ちらり、そちらに顔を向けるとベルデは頭を抱えていた。ああそういえば、
「あー鳥頭の小僧だ。薄汚れた金髪のがいるだろう」
この男は他人を覚えるのが大の苦手であったな――ユディトはほくそ笑んだ。
「鳥頭? 何よ、鳥頭って。うちの子達の悪口を言いにわざわざいらしたの? それに金髪ってねえ、そんなんじゃわかりはしないわ。金髪なんて凡庸すぎる……そなただって大まかにいえば金髪になるのではなくて」
「とりあえず、鳥というか、ひよこみたいな」
「そなた、ほんとに何しにきたの?」
「人探しだ」
そこはしっかり真面目に答える。一旦、思索を巡らせてハッとした。
「恐らくだけれども、そなたが探してるのはシュガルでなくて?」
「そうなのか?」
ああ、なんと――ユディトはその場で頭を抱えたくなってきた。
「で、そいつはどこだ?」
何を言ってるのか、そぐそこにいるだろう――とユディトは目配せしたのだが、ベルデは怪訝な顔をしているばかりでいる。不審に思ったユディトが周りを見渡したところで、どこにもシュガルはいなかった。
「逃げたようだから灰色限りなく、いえクロね」
「早く連れ戻せ」
シュガルが自分の元に来た理由がなんとなく見当がついたユディトは鼻で笑った――あの散歩で説教じみたこと言わなくても良かったんじゃないかしら、私。
「なんで? あの子がそなたになにしたっていうの? 私には関係のないことだわ」
「まさかお前の差し金か」
「だからそんな面倒なこと自分から仕掛けるわけないでしょう」
「たしかに」
嫌い、だけどほんと根は嫌いなれない。厄介な相手だ。ユディトは自嘲気味に微笑む。それはぎこちないが。――ああ。
「何をされたか知らないけど、散策にでも出て頭冷やしてほうがいいわよ、そなた。シュガルは一度逃げたら易々と捕まる子じゃないから」


この国は二つの大河に挟まれている。不思議なことにこの二つの流れは合わせたようにいつも真逆だ。片方が穏やかならば、もう一方は激しくというように。この周期は人には知らされていない。おおよそ神のみぞ知るというものだった。リョーガの七つの都市はこの大河と密接な関係を持つオアシスを中心にして成り立っていた。
ユディトの治めるアトリはリョウガ第四のオアシスを有する都市である。先代から整備された水路に、数種の植物畑、それら囲われて街は発展していた。
「最近、雨は降ったかしら?」
「雨ですか?」
ええ――ユディトは執務室の窓から城を囲む水面を見つめ問うた。侍従は不思議そうに白土の壁へと視線を遣った。壁一面に色んな書類の言伝等が張られている。
「ここらは降ってないようですが……そういえば」
なぜか天候に関する知らせが滞っている。
「イシューをこちらに遣すよう伝えなさい」
「いきなり長官を呼び出すのですか?」
「ついでよ。周期的にはあちらの誰かがこちらに顔出さねばならない頃合いでしょ。そもそもうちの丘にあんなもの造っておいてよくも一年放置出来るわね」
ユディトが指摘したのはアトリの北東、丘陵地にある星見櫓のことである。櫓と呼ばれているものの規模で言えばこの蒼の孤城と変わらず、去年の今頃に完成したばかりの代物であった。であるが、ほぼ稼働しておらず、ただの置物と化していたのである。皇帝の鶴の一声で出来た逸品であったためユディトは黙していたが、あまりの無責任ぶりにそろそろ一筆したためようかとも考えていた。ちょうどよい。
「そうですね。そちらには私の印章をつけときましょうか」
そういって胸飾りを侍従に渡した。
「迅速な対応をよろしくお願いしますね。これを最後に加えておいてくださいな」


その日の暮れのことだった。虹が架かったのだ。アトリに雨が降ったという事実は一切なく。彼の瞳にだけ、それは見えていた。


その顔を知らぬならば浮浪者と間違えるだろう。彼とすれ違ったアトリの役人はみなそれぞれ相応の反応を示した。一目は驚いたユディトもぎこちない笑みで彼を執務室に招き入れた。
「風呂が先と誰かに言われなかったかしら?」
「いんや」
「まあいいわ。一つ二つ私の問いに答えたら浴場に案内させましょうね」
愛用ソファーに深く腰をかけて、手を合わせたユディトが聞いた。
「こちらはイシューを指名したのにこの度はそなたが来たわけですか……そのわけを教えていただけると嬉しいのだけど」
「あの方は病に臥せってしまってな。わたしが名代としてここに送られたわけね。ああ、これが証明ですね」
懐の袋からいくつかのガラクタを出しては仕舞い、それを何度かやってから丸められた洋紙を差し出した。
「確かに印もしっかり……たしかに筆跡もイシュー本人のものね」
険しい視線が紙面と目の前のニコニコした男を行き来する。
「ではジョシュア殿、わかってらっしゃるかしら?」
「あれの管理はこれよりはこちらが持つ。そして天のことを本腰いれて調査する。他にあったかい?」
「いえ、それ充分」
ユディトの了承を聞いたジョシュアはヘニャヘニャと力が抜けたみたいにソファに沈んでいった。ユディトは呆れた顔で立ち上がり、机に寄り掛かる。机上にあった呼び鈴を手に腕を組んた。まだベルは鳴らさないで。
「あまり汚さないでほしいんですけど」
「疲れてるんだから多めに見てくれないか? 俺、ほんと疲れてるんですよ」
「ならば早くお風呂に入って休むことですね。今、人を呼びますからしゃんと従ってくださいね」
うーと口を尖らせる大の男にユディトは嘆息ととも一笑。ベルを鳴らして、
「そなたまでわたしを困らせるでないよ」


「主様〜!」
まったくよく通る声だ。燦燦と照る太陽の元、湖のほとり、散策――少し前に同じことがあったような。
「主様! 主様!」
振り返るものか、ユディトは決め込んで歩を速めた。
「待って、待ってくださいってば!」
走って、追い越して、手足を目いっぱい広げて大の字で通せんぼ。肩を大きく上下させながら、
「無視するなんて酷いですよ!」
涙目で睨みつける。
「このあいだ酷い目にあったばかりなもので……ねえシュガル」
びくりと肩を跳ね上げるシュガルに対して、ユディトは微苦笑を浮かべた。
「まあこの間にかぎった話ではなかったですね」
ふと風が吹いて、ユディトは髪を押さえた。妙に涼しい風だった。得体の知れない何かが身体をすり抜けていったような、身震いがする。シュガルは何も感じなかったのか。眼前でにこにこしているこの少年は。深い藍色の眼光が揺れた。
「今回はなにもしてませんよ、僕」
揺れるか細い声にユディトは無反応だった。


ユディトはその夜、不思議な夢を見た。美しい金色の馬がアトリの水面に降り立ち、水面を浄化しながら駆け巡る。それは優雅に、歓喜溢れた姿で。けれど、天からぽつぽつと雨が降ってきて綺麗だった湖の水は墨汁を落とされたようにあっというまに黒くなった。そして牝馬は砂像如く崩れて、あっけなく沈んでいくのだ。それを繰り返し、繰り返し、目が覚める感覚を得た頃合い、仄暗く陰気な空気漂う部屋の中心に立っていた。豪奢であったであろう寝台の上で藻掻き苦しむ蒼い目の少女を視た。


応接間の壁に一枚だけ飾られてる肖像画。描かれているのは礼装に身を包んだ美しい人だった。褐色の肌に色素の薄い髪、紅蓮の目。その陰は自分と同じ色を持ってるその貴人をひたすらねめつけていた。


パタパタと少年はまた落ち着きなく歩いていた。眉を八の字にしてキョロキョロ。空はまだ白く、城内はひっそりとしていた。
「ここどこ?」
項垂れてシュガルは呟く。ここ最近、彼の記憶は虫食い状態だった。気がついたら知らぬところにぽっつりと立っていたり、知らぬ名残りがあったり、と。どうなっているのか、混乱は深まるばかりだった。
「また、なにかしちゃったかな」
いくら生来の鈍感とはいえ、理解してしまえば気色悪いなんてもんじゃない。気が狂わない自分はおかしいとすら思えた。
「どうしよう。主様に相談したかったんだけど……あの人邪魔するからなあ」
口を尖らせてみて、ふと足を止めた。
「あ、今日は晴れてる」
早朝、アトリを包む灰色の霧が消えていた。


「そういえばイシューは変わりない?」
机上の書類と戦っているジョシュアにユディトはそれとなく尋ねた。
「え、ああ……これとこれってもう少し詳しい記録取ったものないかい?」
「こちらの帳面ではだめかしら?」
「あんがとう。えっと長官殿のことですよね。変わらないというか、相変わらずというか……」
「病気だというのは?」
「今回のは……マジっぽいっすね」
「やっぱり今までのいくらかは仮病だったのね」
「わかっているものだと思ってましたが。はい、そうです、あの方の常套手段ってやつ。しかし、そこらへんわかってらっしゃったんですよね?」
「まあそうね……どことなくバレバレなのよね。今回はそんな気がしなかったから……どうなのかしらって」
紙面から視線を外したジョシュアはまっすぐユディトをみていた。
「心配するか?」
思いの外、真剣な眼差しだった。それに対してユディトは唇が歪むのを必死に抑えて、答える。
「心配はしますよ。一応、可愛い弟弟子ですからね」
「それ、あの方が聞いたら泣いて喜びますな」
「そうかしら……じゃあ残念ね、ここに来られないと聞けないもの。……来たからといって言いやしないけれど」
「あーここだけの話、俺が名代にって話になったときでしたか、必死な形相で止めようとしたんですよ、あの方。それこそ興奮しながら反論かまして、おかげで咳こんで息絶え絶えな状態になっても止まんない止まんない……ついと気絶だ」
「阿呆だわ」
「流石にあれには擁護できんわ」
やれやれと手振りをした後、不意にくつくつと笑い出すジョシュア。
「どうしたの?」
「いやはや、なんか昔にも似たようなことがあった気がしてたんだ。覚えてません?」
一息ついて、それとなく考えてみたけれどもユディトに思い当たる節がない。怪訝な表情を崩さないユディトに、
「ないかい? ほらっキミがまだ首都にいた頃」
「思い出したくない記憶ばかりだわ」
長いため息の後、ユディトは続けた。
「正直、余計なことをほじくり出したくないの。うーん圧倒的に良くないことが印象に残ってるだけできっと……そうあの頃はあの頃で良かったのかしらね……いやほんと大嫌い」
隠さず顔を歪めたユディトにジョシュアは目を細めて、
「そういう顔、久々に見た。似合うねえ」
「どういうことかしら?」
肩をすくめて、ジョシュアはいそいそと視線を書類に戻した。ユディトも難しい顔のまま、それに倣い執務に戻る。
暫くして、ジョシュアが小さく唸りながら、
「……この帳面」
「なにかあったの?」
「担当はどなたです?」
「書いてない?」
「そんなはずはないでしょう」
ユディトはこちらにそれを渡せと手を伸ばした。ジョシュアは素直に渡す。暫し、口を真一文字にしてユディトは紙面を確認した。何度も頁を捲ってはつぶさに見ていく。
「……どうしましょう」
パタンと帳簿を閉じてユディトは吐いた。
「この字が誰のかわからないわ」


どんよりとした曇り空の日だった。暗い顔をした少年とすれ違った。少女は腕いっぱいに抱えた荷物越しに少年の姿を確認して、少し進んでから足を止めた。――あれ? 誰だったかな? 見知った顔のはずなのにわからない。喉元まできてるのに、何か引っかかって答えが出てこない。唇を突き出して唸りたい不快感。密に唸り、首を傾げ、仕方なく日常に戻った。


「ユディト様!」
その一声にユディトは前のめりで頭を抱えたくなった。恐る恐る振り返る。
「今日はキルエですか」
安堵の息を含んでいた。我知らずと少女は愛らしく小首を傾げる。
「あれ? なんか酷くありませんか? あたくし、ユディト様の命を受けてちゃんとしっかり仕事してるというのに」
申し訳なさそうにユディトの視線が浮く。なんとなく察して少女は感嘆の声を上げた。
「あーひょっとしてシュガルですか? うーそんなに似てますでしょうか?」
ふんわりとした金髪は同じだが、キルエの瞳は明るい青だった。そもそも二人に血の繋がりはない。まして性別が違う。それなのに齢の近い二人はよく間違われる。
「まっシュガルが何したか知りませんが……さておき、こちら頼まれていたものです。確認して欲しくて」
ぽんっと出された紙の束。
「大変だったんですよ、見つけ出すの」
ポンポンとユディトはその愛らしい頭を撫でながら、ふと問うた。
「有り難う、キルエ。では、その探してるときに何か気になったことはなかったかしら」
キルエは視線を巡らす。
「あるにはありますね。でもそれと関係ないかも……」
常にハキハキしているキルエが歯切れ悪そうにしている。ユディトは紙面に視線を落としながら、
「別に些細なことでもいいわ。言ってみなさい」
「よくわからない人とすれ違いました」
「わからない? どういう風に?」
「自分でもそこのところが上手く説明できないわからなさです。思い返すと混乱するんです。だから忘却するのが一番かなって……まあ無理なんですけど……この不快感どうすればいいですか?」
可憐に首を左右に傾げるキルエ。
「それが誰かわからなくてモヤモヤするってことね」
「そんなところですかね?」
「その……聞いておいて悪いのだけれど、私もそういうの対処法に悩んでいるところなのよ。これはみんな通過することなのかしらねえ?」
二人とも困った顔をして、嘆息を吐いた。
「とりあえず、どこでそんなのに出くわしたの?」
「廊下ですれ違いです。そのときは気にも留めなかったんですけど、少し経ってからあれれって」
そのままキルエは真面目な顔を作って、
「私、記憶力だけが取り柄だったのに」
肩を落とす。いつもは大人びいた少女が弱気になって年相応の顔をしている。ユディトはそんな微笑ましい彼女を横目に先日の自分の記憶を辿っていた。知らぬ顔の話、自分の知らぬ筆跡。二人だけだが、二人も似た経験を同時期に得るものだろうか。ユディトは暫し、少女と言葉を交わしながら、考え続けた。


同じ時刻、シュガルは大変な事態に悩まされていた。幸い、今日の務めは容易いものでもう終わらせている。そもそも、その帰り道だった――安楽的に考えたのがいけなかったのか。滅多に開いていない扉が開いていたのでこれ見よがしに近道が出来ると古庭に足を踏み込んだのだ。美しい風体の造形に足取りも軽かったが、迷った。アトリの城の古い庭には記憶が宿っている。そんなことが伝えられていた。けれども、それは特段なんともなかった。鍵をかけられているが、別に立ち入りを禁止されているわけでもない。城で働く人間が密に憩いの場にしていたり、シュガルが思い立ったように近道に利用したりと。アトリの城はとても大きく古いのでこういう場所が庭に限らず、幾つもある。シュガルも何度かお世話になっていた。ただ、この庭ははじめてだった。シュガルは迷ったと理解したその瞬間、雷に打たれたような衝撃が脳天を衝いた。膝を折って、土に手をついて、痛みに耐えながら、思考する。目尻からは自然に涙が零れた。口から洩れるのは呻き声になりかけた息。気付けば、明るかったはずの庭は鬱蒼とした植物らが創る薄ら闇に包まれていた。暗くなる時刻ではない。不意に痛みからすり抜けてきた考えは最悪のものだった。誰が、自分が、ここにいることがわかる? このままだと誰にも知られることなく、ここで野垂れ死ぬ可能性は。自分がいないことは気づいてくれるだろう、でも、ここは? 絶望で泪はすっかり乾いた。爪が地面に入りこむ。湿った土が指を汚し、隠れた砂利が爪を指の腹を傷つけることなど構いはしなかった。這ってでもここから出てやらなくては。その一点に意識を持っていく。少しは痛みを追いやれた気がした。だが、この痛みは生易しくなった。追い打ちがきた。二発目の稲妻は容赦なくシュガルの意識を奪った。力が抜けていく最後の最後で安堵した。痛みがもうない――これは死ではない。その核心だけでシュガルの顔は笑みを作っていた。


日は暮れなずみ、鳥は鳴いている。アトリの水面は夕焼けを映し、キラキラと煌めいていた。ユディトは遅い散策に出ていた。足元が冷えていた。リョーガは通年太陽が上にいるときは暑いが、月が顔を出すと厳しい寒さの気が地を這う。ユディトはキルエと話したことを思い直していた。アトリの城は古い歴史を有するが故に不思議なことがある。そう、全てを把握しているわけではない。だが、これまで起こったこういった件は些事でさして深入りする必要のないものだった。自身が当人になったこともなかったというのもユディトがこれらに疎かった遠因だったかもしれない。下手をすれば、いや考えたくもないが、専門家を呼んだほうがいいだろうか。悩んだ。せっかくの気分転換がこれでは台無しだといわんばかりに眉間の皺を揉み解した。ふと視線を上げると血相を変えて走ってくるジョシュアの姿があった。
「ユディト、ユディト!」
足を止める。ジョシュアはすぐそこまで来て息を整えてからゆっくり最後の歩を進めて、距離を詰めた。
「つかまえることが出来てよかった。散歩なんていい趣味をみつけたね」
「私もそう思うわ。素敵でしょう。せっかくだからそなたも如何?」
「持ち帰って検討させていただこうかな」
苦い微笑みを交わしあってから、
「なにが遭ったの?」
ユディトから問うた。
「ここのところ雨降ってないよね?」
「ええ、それを調べてもらいたいって伝えたでしょう」
「虹は見たかい?」
「何を言ってるの? さきほど、雨は降ってないと言ったばかりでしょ。虹って雨があって出るものじゃない」
「なら他の誰か……どんな形でもいい、虹を見たという奴はいる?」
虹、そんなに重要なことなのか――ユディトは小首を傾げた。
「わからないわね、ところでそれはどういう」
「埃の中に埋もれてた記憶なんだと思う」
ジョシュアはどこか遠くを見ていた。


ジョシュアのいう話は本当に御伽噺の一種だった。アトリの昔語り。資料を倉庫で漁っていたときに不思議と目に留まったそうだ。このアトリの城に棲む魔法にまつわる青の唄。雨を知らない虹という一節が現在と類似してると。
ユディトはやはり懐疑的だった。でも、自分でなにかしらの答えがあるわけでも、ましてや糸口を掴めているわけではない。ユディトは自分で思ってるほど頑なでもなかった。打開の可能性があるのならば、とすぐに手を打つことにした。しかし、青か――。ユディトは空を仰いだ。

翌日も晴れていた。ユディトの執務室にはまたジョシュアが詰めかけ、そのまま一緒に作業、昼頃にはキルエが報告に来ている。
「虹がきれいだった? なにを言ってるの?」
キルエは怪訝な顔でジョシュアをねめつけた。ジョシュアは至って真面目な顔をしていた。そんな二人の間を割るようして、キルエが口を開いた。
「そんなことよりシュガル知りませんか? 今朝方にはいたと確認を取れてるのですが、どうしたんかな……困ってるんです」
またか――とユディトは額に手をやった。
「すみません、大丈夫ですか?」
「あの子には最近……ほんと目に余ることが多すぎるわね。お灸を据えたほうが良いかしら?」
「できれば。ですけど無理にはとはお願いしません」
「いたずらはわかっているわ。ただ務めをサボるような子ではなかったと思うのよ……ほんとここまでとは」
ジョシュアをなにか思いつめたかのように黙していた。そして、唐突に。
「シュガルに会いたい」
「どうしたの? いきなり会いたいって、そなたが説教してくれるのかしら」
「なあシュガルの瞳ってどんなだった?」
ユディトとキルエは顔を合わせて、眉を顰めた。
「どんなって、なんとも……」
「それは赤かな、薄い桃色にも近い明るい赤色でしたよ、ユディト様は紫ですよね」
「ええ確かに明るい赤だった気がするわ。でも、それが今なにかしたの?」
ジョシュアの表情が翳った。声を低めて、
「早くシュガルを探したほうがいい」
どこか切迫した様子が見える彼にユディトは余計なことを聞き返すことはせず、素直に従った。


時刻は不明。部屋は妙な静けさを孕んでいた。その中心にいたのは小柄な影だった。曖昧な表情で肖像を見上げている。どこか重い匂いがする。それは這って、纏わりつくようにして、だんだん馴染んだ。永く底にあった空気は不思議な色を持っていた。それが視えるのはそれに同調できる可能性があるものだけ。
「お前は何故ここにいる?」
少年の耳にどこからともなく声は降ってきた。曖昧な視線がゆらりと壁を伝い上る。誰もいなかった。そこにあったのは厳かな肖像画だけ、女の画。少年は口を半開きにしてなんともおかしな表情をしていた。一見、間抜けな。微睡んだままに濁った赤眼。
「まったく言いつけを破りおったか。また迷い児をつくるとは」
部屋に小さな砂嵐が起こった。窓が勢いよく開かれて外から風が吹き込む。乾いた白砂がキラキラとして、人影を形どる。肖像に描かれたその姿だった。ただし、硝子にも氷像のようにも全体の色は青く透いていた。目元だけが強くぼやけて、いや吸い込まれるほどの黒で潰されている。吐息は白く、これもまたキラキラとした粒子が舞って綺麗だった。砂の一粒、一粒が凍っていた。少年は惚けた態でのったりと手を叩く。
「なんだ、今回はわたしを覚えているのか」
少年の顔面が歪む。にったりと綻びる。
「では、これからどうなるかも理解しているな。悪いが何度目であろうと手加減せんよ」
ひゅるり、風が吹き抜けた。
身体を震わして笑う少年の声帯から音はなく。変わりと言わんばかりにケラケラと子供の笑い声があちらこちらから発され、部屋を満たす。
人影は瞬いた。青白い光が一度、笑い声を払いのけるように強く発光するとその光は弱まるとともに赤みを帯びた。光が完全に引くと室内に静けさが帰ってきた。少年は笑うことを止めた。きょとんとした顔ではらりと涙が頬を伝う。膝を折って、人影を見上げる。口が動く。どんなだけ動こうと声はつかなかった。
「あの子たちを起こしてはいけないんだよ。君もわたしも独りで――だから」
淡々と告げる。
「帰りなさい」
ただただ不思議そうに不満げに、少年は人影を見つめていた。


もう夕刻になるというのにシュガルの行方は杳として知れず。心の奥底にくすぶる不安が肥大していくことから目を逸らすのに必死だった。厳しい顔でユディトは心当たりをあらっていた。白壁に張り巡らされた紙の断片とにらめっこ。まだ消えたといっても一日経っているわけでもないはずだ、なのに。それもキルエとジョシュアが城内を探してくれている、なのに。ユディトは窓から空を確認した。今日は散歩に出ていない。無論、そのような気は微塵も起きないのだが。
ふと、胸元がチクりとして、後を追ってじんわり焼けるような感覚に襲われた。確認するとペンダントとして下げていたブローチが熱を持って光っている。ブローチの要はこの土地で採掘される紅い石で作られていた。この石そのものはそこまで特別なものではなく、その細工に鍵があるらしい。ともかく、時折こうして何かに反応するのだ。そういえば、とユディトは首を回らす。「気にすることはない――赤の光はアトリの吉兆である」と託された品だったが、その最初の光があったのは赴任して半月目。あのときは――はて、特筆すべきことはあったか。ユディトは喉奥にひっかかったいくらかの記憶を摘まみ上げようとしていた。
「あのときはたしか……」
城を出入りしていた商人の子が行方知れずになった。結局、少女は見つかることなく、法にならい、年が三つ巡る頃に鬼籍となった。
「……まさか」
ユディトの足は自然と奥の書庫へと向いていた。


寒い、身体が濡れている、冷水を頭からかぶって、そのまま捨て置かれていたようだった。ぶるぶる震える。ゆっくりと顔をあげた。シュガルは自分の姿形を確かめるように己の身体をあちこち触った。外側に変わったところはないみたいだった。辺りを確認してみてもなんらおかしなことはない、暗いけど知ってる場所だ。特徴的な形をした暖炉が目の前にあった。毎日、掃除に訪れてる部屋。いや、今ここにこうしていることがもっとも奇怪なことだった。なんで寝っ転がっているんだ。城主の部屋ではないか。私室、ユディトの寝室だ。窓に目を向けると暗くなっている。当たり前だが、こんな時刻にシュガルがここへ足を運ぶことはない。迷い込むこともまったくもってない。もう不安を軽く飛び越えて恐怖しか抱かないのだけれども、自分はどうしてしまったのだろう。ぐずぐずしていた自分に落ち度はある、少しばかり強引にでもユディトに話しておくべきだった。こうなるたびに愚か、なんてぐるぐる考えていたら眩暈が襲ってきた。額を押さえて、目を固くつぶって、凌ぐ。頭の中をなにかが覆おうとしている気がした。瞼に描かれるのはヒンヤリとした青い霧。産毛のように柔らかな棘を持った蔦。黄昏色の液体。夕雨が降り出す前の曖昧な匂い。シュガルはハッとした。思考が心地よく綯交ぜになって見落としていた、ここは明らかに違う。暗がりに目が慣れてきて幽かに色別できるようになって初めて気づいた。赤を基調にしている。壁も、家具も、小物も。
「主様の部屋って青だったはずなのに、どうなってるんだよ」
一卵性双生児みたいにそっくりな部屋、ただ色だけが違う。身体の声を無視して矢庭に立ち上がった。
「とりあえずここから出よう」
顰めた面で呟く。口に出さないと気力が湧いてこない気がした。冷たい扉を開けて、廊下へ出る。そこもよく似ているだけの別物だった。
「部屋に帰って、だれかに、キ、キルエに打ち明けて」
声が震える。血の気が引いていくように寒い。膝が笑っている。恐怖やら不安やらが足にまとわりついている。水気を多く含んだ雪の中を進まされているよう。意識が飛ばされそう、瞼は重くなる。
「だめだ。こういうとき寝ちゃダメってみんないう」
壁に手をついて、ゆっくりでも歩を進める。
「誰か、いない?」
白い息が床に零れ落ちる。
カツリ――シュガルは近づいてくる堅い音を聞いた。
 

湖のほとりまで来たユディトは余裕のない複雑な表情を浮かべていた。まだ認めたくない、けれども少なくとも一手打たなくては変わらない。わざわざ着替えてきたのだ。もう日は暮れていた。ここからは灯籠の明かりだけが頼りになる。彼を呼ぶには絶好の時間であった。あとはユディト自身が腹を括るだけだ。
「まさか……あれだけ啖呵を切ったのというに……顔合わせるの気まずいわ。なるようになれっていうの?」
涼しい風が頬を撫でる。静まり返る空間でユディトは唇を真一文字にして意識を一点に集中した。胸元の紅玉のブローチに両手を置いた。ただただ真摯に祈る。灯籠の明かりが石の中心に移っていく。その粛然とした世界の明かりが全て小さな赤い石に集められていく。
「我、アトリ。アトリから問う。汝、ここにあるか」
赤い石、すべての光が消えた。水を凪ぐ音が聞こえる。静謐な暗がりの中でユディトは面をゆっくりと下げた。水がゆったりと溢れる。膝を折る。冷たい水に浸る。己の熱が逃げていく。意識は腹に集約されていく。硝子の盃を戴くように差し出した手。青い水が満たされる。ユディトは世界を壊さぬと細心払って、面を上げた。
「……おるよ」
声だけがある。はっきりとした低い女の、高い男の声。
「変なのに好かれたやつがおるな」
「わかるの?」
「嗚、霧が濃い」
声に合わせて赤い石が点滅している。
「甘ったるい匂いが混じっているぞ。また、まただな」
「あのときと同じということかしら」
間があった。うすら霧がユディトの前に集い、人を象る。
「こんにちは」
赤眼。
「相変わらず悪趣味ね」
姿形はユディトそのまんまだった。
「気に入ってるのよ」
柔和な表情を作って続ける。
「こちらに引きこまれたやつはまだ無事よ。今回はちゃんと先に見つけられたみたいカノジョ」
ユディトは小さく一息ついた。
「良いことではないぞ、カノジョとて同じなのだということを努々忘れるな」
首を縦に振って、ユディトは赤い石を撫でる。
「わかっているわ。でも幾分かマシよ。なにもわからなかったんですから……アトリ」
アトリはユディトと同じ顔で同じように首肯した。
「どうすればいいの? まだシュガルは助かる望みがあるのよね?」
「容易いことだ。オレを呼べたのだから」
不敵な台詞を吐くアトリに呼応して石の赤みが増し、輝きも強くなった。
「……」
ユディトの表情は険しいままで固まった。


シュガルは倦怠感でその場から一歩も動けないでいた。
液状の重しが身体全体を覆いかぶさってくる。逃れようにも逃れられない睡魔に似ている。抗いがたいのだ。意識が綯い交ぜになる。
「諦めろ、楽だぞ」
いつからか、どこからか、そんな声が耳の奥でずっと反芻していた。それは子供の声が重なったやっぱり奇妙なもので、シュガルは一緒になって呟きかけた。
「意識をしっかり持っていなさい。まったく……わたしまで君を取り込みたくなる」
背後にぴったりとくっついてきた風が囁いた。シュガルはヒュッと息を短く吸い込んだ。
「大丈夫、救いはあちらから必ず来る。君は色の強い子だ」
「ほんと?」
「ああ、信じなさい。君の主もわたしの主もそうそう同じ轍は踏まない」
シュガルはほんのりと微笑んだ、それが緩みとなって涙がぽろぽろ次か次へと零れていった。風は煌めき、シュガルを撫ぜるように一周してから、その前で人の容を模る。
「大丈夫よ、きっと」
耳に心地よく馴染む、女の声だった。


アトリが湖に沈んで数刻。ユディトは畔に佇んでいた。やれることはない。あちらの領域にユディトは直接かかわれないのだ。頼むことだけ。この国は霊界と呼ばれる界隈が常に寄り添って存在している。薄いベールとなって現世に被さるように。影響し合うながらお互い不干渉が暗黙の掟。ゆえに下々には知られていなかったり、曖昧な、精々御伽噺の程度のものだ。ユディトも士官してある程度の地位に上り詰めるまで知らなかった類の人間だった。不信感もある。
「立ち会っても慣れないものってあるものね」
冷たい風が吹き抜ける。夜の静寂が心地よかった。
「帰ってきなさい、どうかどうか」

「あったかい」
胸からめいっぱいの空気が入って抜けていくのと同時に掠れた声が漏れた。起き上がることは出来なかったため、首を動くかぎり巡らせて確認した。見慣れた色の部屋。五臓六腑がほんのりと温かった。
シュガルは自分の身に何が起こったのか実のところ覚えてなかった。
記憶がぽっかり空いていることすら実感できなかった。

ユディトの元に彼女がシュガルを横抱きして湖の向こう側から現れたのは東の空が白む頃だった。彼女はアトリと目配せ、ユディトにそっとシュガルを受け渡した。そして、ユディトの胸元の石に口づけて消えた。濡れて冷え切ったシュガルを必死に温め、人肌の色を取り戻させる。そこまで見届けてアトリも湖に帰っていった。これで一安心と一度は胸を撫でおろしたが、昏々と眠り続けるシュガルにユディトは不安と苛立ちを募らせる日々を過ごしていた。
「ユディト様?」
その幼い掠れ声を聞いて、ユディトは止まった。緊張で作られた土台が崩落して、その場に膝をつきそうになった。寝台から降りようとしているシュガルが視界に入ったとき、ユディトは前のめりに動いた。
「シュガル! 大事ないか?」
切迫げに問うユディトの姿にキョトンとして小首を傾ける。
「大丈夫ですよ?」
その大きな虹色の瞳には憔悴の色濃い女の顔が映し出されていた。

「アトリのことはまだ……」
ぽつり、ぽつりと溢すユディト。
「いずれにせよ、シュガルはここにはいられないだろう」
「わからないわ」
ユディトの書斎で二人は向かい合うようにソファーに腰かけていた。普段とは打って変わり、弱弱しいユディトと強気のジョシュア。
「また同じことが起きないようにどうにかしたほうがいい」
「そこは承知してる。記録を洗ったら似たような事案がちらほらあったなんて……何をしてたのかしら」
「そこはいくらでも想像できるだろう」
お茶を一口、ユディトは冷めた渋みに顔を顰めた。
「私みたいな主が続いてたってことかしら」
「ここはそういう信仰が薄いことも一因だと思うよ」
「そう。確かにそうかもかれないわね……ただ、だからって言い訳ならないのよ」
きっぱりと言い切ったユディト。
「あの星見櫓はこういったことにも役立つの?」
「まあそちらの観測もする役割はある」
「わかった、ありがとう」
ユディトの視線は自然と外へ向いていた。

 
 

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