催花雨



 逃げようと決心して探り歩いていたところをばったりとこの子に出くわした。出鼻をくじかれたと目元を覆い隠して、肩を落とす。きつい視線だった。想定していたものとは違った。頬を林檎のように紅潮させ、瞳の潤みは辛うじて双眸に収まっているものの、ふとしたこと弾け落ちそうである。なんで? こんなにもこの子は愛らしいのか……まったく。首を軽く左右に振ってから、
「お手洗いを借りようと思っただけだよ」
ヴェラは怪訝な顔を崩さなかった。けれども、涙は引いたようだ。
「案内してくれる?」
こくり。この子はまったく喋れないのだろうか。鳴き声らしき音は発したりして意思疎通はできてるようだから問題はないのかもしれないけど。
「ねえヴェラって呼んでもいい?」
こくり、こくり。二度、首を振ることの意味は?
「いい?」
こくり、こくり、こくり。念を込めた問いに三度の肯きが返ってきた。ぎゅっと裾を掴んで引っ張るこの子はなにか悔しいことでもあったのか、きっとそうだと思った。ずっと真一文字に絞めて下唇を噛んでいる。
「なにかあったの?」
小首を傾けて問いかけるとヴィラもそれを真似たように可愛らしく傾げた。傾げたまま、そのさきは何もなしか。案内はどこへ行った。そんなに急務ではないことは幸いだけど。ヴェラはじーっと見つめるのは癖のようなものなのか。いや、喋れないならこうするのが必然なのか。目は口程に物を言うな。まあいい。
「そこを曲がればいいのかな?」
頷く。ただただ進む。
歩いてみてわかったことだが、ここは中々デカいようだった。部屋はこじんまりしていたから、それ相応のちっぽけな規模を思い描いていた。ふむ、これはちょっと想定外かな。逃げ出すことに乗り気ではなかったけど沸々と邪心が湧く。おかしいかもしれないけど、広いとそのぶん死角やらもたくさんあるんじゃないかなあ。なんて。
「あああ?」
ヴェラが裾を引いていた。そのジト目と目が合うと、彼女は一息ついてから一つの扉を指してくれた。
「あっあそこがトイレ?」
大きく頷く。ならば。
「ありがとう! じゃあ
扉に向けて一直線駆け出した。そのつもりだった。少なくとも私の頭の中では。
バタン。瞬きの間に白い閃光が混じって、次の瞬間には床にこんにちわしていた。痛みはなかった。そもそも、その一瞬の出来事が把握できなかった。置いていかれたような。ケラケラと笑う声が耳についた。これはわかる――ヴェラだろう。あの子がなにかしたのだろうか。じわじわと痛みが追いついてきて目尻に水分が堪ってきた。首だけ巡らせてあの子のほうを見遣る。だいぶ遠くにいる。あれ? どういうことだろう。コツコツと違う足音がして、そっちにも目を遣った。
「なにしてるんだい? また」
カリナが呆れた口調で、
「ここでもか……君は。切れたので拾って連れて行ってくださいってか?」
「ははは。そう見えます?」
「いや。ああ邪な考えを持つから転んだんだよ」
カリナはそう言ってヴェラを手招きで呼んだ。
「この子から逃げようとしたんだろう?」
「だったらなんですか」
「あの子、君のこと気に入ったみたいだから無理だよ。変なことを考えないほうがいい」
耳元で囁いて退いていくカリナの顔は泣き笑うようにしかめっ面。
「どういう意味?」
立ち上がろうとしたけど、膝ががくがく言うことを聞いてくれなかった。


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