催花雨


 

 しばらくして、首の痛みが治まる頃合いをみて歩きだした。あの二冊の本はもう棚に上げて、進む方向は勘に任せた。いや、ちゃんとコンパスと地図があったのだが考えれば現在地がわからない。わからないのなら、これらは何の意味があるだろう。意味はあるけれど打開策には向いてないだけか。
「西に進んだら、西に進んだら……きっとなにかある」
 これが女の勘。保証などはない。
「地図を見たら西のほうが栄えてたし」
 ただ書き込まれてることが多かっただけで確証はない。
歩いても歩いてもあまり変わり映えしない景色に辺りを見回す回数も減った。替わりに地図を覗き込んだ。きっとここを進んでいるのだろうと――狼馬の原。この地図に描かれた大きな草原の一つ。そこに手書きで記号が打たれている。たぶん、そういうことなんだろう。
「そういうことなのかしら」
 足を止めることなく、ぶつぶつ呟きながら一人いく。
ふいに景色が変わりはじめた。吹いてくる風が違う。すこししめっけを含んでいる感じがした。広大な草っ原でしかなかったところにのっぽの草や低木が混じり始めた。これはしめた、口角が少しずつ上がっていくのが自分でもわかった。ひたすら歩き続けてきた膝も一緒になって笑い出しそうだった。一度でも足を止めたら、そこで止まってしまう。そんなのだめだ。休むならちゃんとした場所がいい。だって、もう青臭いのは嫌だし地面が段々小石まじりで固くなっているのが靴底越しに伝わってきている。
「なんかもう本当に駄目になるかの勝負みたい」
 空気がひんやりしてきたというのに玉のような汗が次から次へと湧いてくる。
「まあ夜って危ないのが定石よね、それまでに決着決着ね」
 ニタニタと言ってみても余裕のない声色。足の運びもだいぶゆっくりになった。一時的に軽くなって早くなったと、距離を稼いだと思いこんだだけでそうでもなかったらしい。なんも変わらないことに早々嫌気がさしてきた。焦りか。
 日が傾いて、暗くなってきている。荷物、重いなあ。あれだけごちっていた呟きも口から出てこなくなっていた。息の回数は増えているのに。汗が目に、目が霞んで、それを拭うと地味に痛痒い。一日でどんだけボロボロになっているのか。足を動かすだけの絡繰りになってみた、とか――どうだろう。そんな気を紛らわせる策を練っては捨て、練っては、と意識を回す。すると遠くからかすかに規則正しく大地を蹴る音が聞こえてきた。それは遠く、前からだとわかった瞬間、膝がぽっきり折れて土についた。俯く。膝はイタイし汚れるな、最悪。上半身まで勢いで倒れないで良かったと考えようかな。暫くはもう動けないだろうから、ここで野宿かあ。小石がかすかに震えている。すぐそこまで近づいてきたか。三つの爪で大地をしっかり掴んでいる毛むくじゃらの足が視界に入った。
「困ったなあ。こんなところに珍しい旅人さんね」
 声は頭上から、けれども視線を上げる余力も残ってなくて聞く侭で情けない。
「ん? 迷い人ではなく旅人さんでしょ。疲労困憊、もうどうしようもないってところかな。致し方ないこと」
 ずいぶん、喜々とした声。声だけで判断するに女性、落ち着いている、心地の良いほどに低い。
「一人くらいなら乗せられるかい? シュクリ?」
 不思議な嘶きが返事をした。
「よし、お前は本当にいい奴だね。さあ、幸運な君、もう大丈夫だぞ」
 なんだか勝手に進んでいく言葉を、ただひたすら身を任せるしかないと覚悟した瞬間と同時に意識は落ちていった。見ず知らずに拾われた。
 

拍手 戻る



人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -