死んだという開放感ですっかり忘れていたが、この家はカンパネラ一人で住んでいるのだろうか。家族はいないのだろうか。訊いてみると、どうやらここは彼女一人で住んでいる家らしい。家族がいない事について触れてはまずかったか、と思った弥里だったが、カンパネラは気にする様子もなくクッキーを頬張っている。乗り越えているのか、いない事が当たり前なのか。いずれにせよ、少し悲しい。
弥里も家族の事は少々気になったが、もう生きなくてもいいという喜びの方が勝っている。なんて薄情なやつなんだと自分でも思ったが、気持ちがそう言っているのだから仕方ない。まあ家族もそのうちこちらに来るだろう。そんなに心配する事ではない。それより心配するべきは、これからの事である。弥里が持っているのは自分の体だけだ。お金も服も、何も持っていない。

「あなた…いや、あの、えーっと…」

「わたしの事はカンパネラと呼んでください」

「カンパネラ、あたしお金とか何も持ってないんだけど」

「お金なら大丈夫ですよ。普通に生活できるくらいならありますから」

わたし、幸せの町の象徴なんです。

「ミサトのいた国でいう、天皇みたいなものです。わたしのお客様なら、お金だって使えるはずです」

カンパネラはやはり只者ではなかった。弥里は恐縮してしまったが、カンパネラという人物も人物だったので、あまり畏まる方が失礼な気がする。タメ口で話そうと決意した。
しかし彼女、年下のように見えるが、実際いくつなんだろう。口調はすごく丁寧だし、一挙一動が優雅だ。とても年下には思えない。どんな躾をされて育ったのだろう。訊いても笑って躱されてしまった為、追求はしなかったが。仙人のようなものなのだという方向で自分の中で解決させた。見た目は幼くても、何百年も生きているとか。きっとそうだ。
そんな事を話しているうちに、カップから紅茶がなくなった。クッキーはまだ余っていたが、結構な量が乗っている為完食するのは難しそうだ。だがカンパネラも気にせず皿を下げてしまったし、きっと保存しておいてまた食べるのだろう。ビニールのパックに入った煎餅のような扱いだと思われる。片付けは手伝おうとしたのだが、今日の所は任せてほしいと言われた。申し訳ないが、今日の所は、という事は次回からは手伝わせてもらえるという事だ。これから、きっととても長い時間を彼女と暮らすのだから、急ぐ事もないだろう。今はまだ『お客様』でいればいい。
片付けを終えたカンパネラは、さて、と切り出す。

「町に行きましょうか」

「あたし無一文なのに」

「お金の心配は無用です。怒られるまでは大丈夫ですから」

一部不安の残る台詞があったが、気にしない事にして。二人は家を出て町に向かった。この世界では鍵をかける必要がないのだという。泥棒なんて職業はないらしい。幸せの町というだけあると弥里は感心した。生きていた頃の世界とは大違いだ。

森は深くはなかったようで、三十分も歩かずに抜ける事ができた。時計がなかった為、正確な時間はわからなかったが。
町は多くの人で賑わっていた。市場になっている通りには活気が溢れていて、しかし弥里が生きていた世界の都会とは違い、ごみごみした感じはしない。石畳の町並みのせいもあるかもしれない。人々の着ている服も昔のヨーロッパの庶民が着ていたような服だ。やはりあの世界とはいろいろ事情が違ってくるのだな、と弥里はカンパネラのあとを追いながら思った。
もう一つ思ったのが、カンパネラの存在の大きさだ。歩いていると、皆がカンパネラに挨拶をする。尊ぶのとは違う。とても親しげに声をかけてくる。どうやら現実世界の天皇とは少し違う存在らしい。時々、ついてきてる子は誰だと訊かれる。カンパネタが大事なお客様だと伝えると、訊ねてきた人はよろしく、なんて気さくに声をかけてくれるものだから、人見知りをする弥里はまいってしまった。
弥里は背を丸めてこそこそとカンパネラのあとについていった。後ろを歩く事さえ大変な事をしているようで。本人はそんな事まったく気にしていないようだったが。慣れるまで時間がかかりそうだ。

「みんな、とてもいい人たちばかりでしょう?」

「楽しそうに生きてるね」

「この町では誰もが幸せなのです」

勿論わたしも。立ち止まりくるりと向き直ってそう言ったあと、カンパネラの頭に付いているベルが可愛らしい音を立てて鳴った。さっきから何度も鳴っているのだが、歩いた衝撃で鳴っているのかと思っていた。強い風が吹いたわけでもないのに、小さな鐘は鳴っている。弥里が不思議に思っていると、カンパネラは嬉しそうに答えた。

「わたしの近くにいる人が喜びや幸せを感じると、この鐘が鳴るんです」

町にいる間は、鳴りっぱなしかもしれませんね。
この町の人々は、いつでも幸福感で満ち溢れているらしい。
いっそ気でもおかしいのではないか、と弥里は思う。いつでも幸せでいられるわけがない。(もう死んでいるが)生きていれば苦しい時だって、辛い時だってあるはずだ。弥里は町の人々やカンパネラの喜び、幸せが嘘臭く思えてきて、少しだけ冷めた目でその小さな背中を見つめた。

2013.8.15