永遠という名の煙について
息苦しくなったとき、煙を吸いたくなるのは不可解な話だ。空気の味に飽きてしまっているのかも知れない。深呼吸しても満たされない、リフレッシュされない、変わらない心情を、それはメランコリーとも言うのだろう、それらがおなかの中で渦巻くのを感じて、街の高台に出た。わたしだって年中おなか空いているわけではない。食べ物ではない、感情的なものが、おなかに渦巻くこともある。
午後の街はうすぼんやりと晴れていて、平常運転、小学生が下校して、車が走り、穏やかで何一つ変わったところはない。街の人々はそれぞれ自分たちの生活にいそしんでいて、例えば隣人が何かいつもと違う気を起こしても、素知らぬ顔をしてそうだ。
わたしが違った気を起こしても誰も気に留めはしないのだ。
ポケットからひしゃげた箱を引っ張りだして、そのうち一本を引っこ抜いた。いつもこうしている訳ではない。ただ、きっと、呼吸が恋しくなったときに咥えてみるだけだ。ライターオイルが残り少ない。風が少し強くなって、なかなか火がつかず、三度の失敗ののちようやく煙が立ち上った。
ため息に煙が混じる。
「あー」
声が聞こえて、思わず煙草を落としそうになった。しかもちょっとむせた。平常を保とうと、何となく声のした方を振り返って、気持ち睨みつけてみる。一体きちんと視線が交わっているのか定かではない。
「いたんですか」
黙って見てたんですね。非難を込めて尋ねると、「いたんですよ」と鸚鵡返しされた。茶化されていることへの抗議のかわりに、今一度煙を吸って吐いた。これ見よがしというふうに。手応えは全くない。
「ねえ、それ」
背伸びしたくて吸っているんじゃない。多分、やけ食いに近いような、遠いような、そんな感じかも知れなかった。人生を灰に帰している、そんな気もする。
「何だっけ。マイルドセブン?」
マイルドセブン?
てっきり説教されるか取り上げられると思っていたのに、拍子抜けした。
「メビウス、です」
「ああ。名前変わったんだっけ」
そんな名前だったっけ。思わぬところで小さな世代差を感じてしまった。わりかし年上だろうとは思っていたけれど、こんなところで知るなんて。
「怒らないんですか」
年長者にそう尋ねるわたしの方が怒っていただろう。怒られたくて吸っている訳ではないけど、ちょっとした呆れは抱いていた。
「なんで怒んなきゃいけないのさ」
相手も相手で呆れた声で返す。「法治国家ってクソだよな」会話が噛み合っていないなあと思う。
「あ、でも、反政府勢力とか似合いそうですね。悪の総統みたいな。地下組織みたいな」
「国家転覆でも目指す? 一緒に。じゃあきみが秘書官やってよ」
「わたしは食事が保障されてればなんだっていいんです」でも血を見るのは嫌いだ。
「日に何本吸うの?」
「毎日は吸いませんよ」
「あそこにベンツがあるのが見える?」
「見えませんよ」
「そりゃそうだよ。無いから」
駄目だ。ペースに呑まれている。
時々現れてはひょうひょうとした会話に付き合っている仲だった。最初は幽霊かと思って、不覚にも泣き叫びそうになり、彼は誤解を解こうとしてわたしの肩を掴んだけれど、余計パニックになった。という散々な初対面の思い出はわたしたちにはタブーとなり、出会ったときにはかつての狼藉を無かったことに決め込んで、いやな思い出を忘れるために、どうしようもない雑談をした。
「マイルドセブン、じゃない、メビウスの1ミリ?」
「3ミリです」
「ソフト。渋いね」
「渋いですか?」
「渋くない?」
「かばんの中で、ちいさくなるから」
学生って、狭いのだ。行けるところなんてたかが知れている。ときどきどうしようもなく息苦しさが迫ってくる。手元に突破口がないと窒息してしまいそうになる。ほんとうに。
だからふらついたり煙を吸ったりする。ほんとうに。それが本当に抜け穴になるのか、わたしは考えないようにしている。特効薬なんてきっとないのだ。無駄と分かっていたり、むなしくなったりもする。どこかに消えてしまいたいと思っていても、何も起こらない。あ、おなかすいてきた。
「一本ちょうだいよ」
「年下にたかるんですか?」
未成年喫煙の身分で私が言えたことではないけど。
辛くなってきたから、吸ってた分をもみ消した。
「その吸いさしでもいいよ」
「え、貧乏症」
そんな間接キスよりは、と、新品を一本あげた。
「お、ありがと」
手渡した煙草の挙動で彼がとなりに来たのだとわかる。どこからか手品のようにライターが現れて、ほんの一瞬で着火した。一口目のため息が聴こえた。
煙の行方を眺めていた。手慣れているように見える。見えないけれど。「姿がないだけでちゃんと人間だよ」思い出し難い初対面のとき、透明人間はそう説明した。煙みたいに姿がないけど、ちゃんと触れる。
副流煙が顔にまとわりついて、なんとか輪郭が見えないかなと、期待していたけれど風が強くて煙はすぐに流れていった。
「なんでメビウスなの?」
わたしは答えなかった。
「ピースとか、セブンスターとか、名前はきれいだよね」
「吸ってるんですか?」
「今はやめてる」
「何吸ってたんですか?」
「ああ」言葉を遮って、灰を落とした。ちなみに灰皿はない。足元に塊がこぼれ落ちた。「きみの知らない奴だよ」
午後の街は静かだ。未成年と透明人間が煙草を吸っていても、誰も気に留めない。誰も見ていない。
口さびしくてもう一本咥えた。いよいよガス欠に陥っていると、となりの男が火をつけてくれた。そういえば、吸わないのにどうしてライター持ち歩いてるんですか。
「何かと使うだろ。火」
そう言って手の中で弄んでいるらしい。ライターが宙に浮いたように見えて不思議だった。
「きみの好きな星だって火でしょ」
「それはこじつけですよ」
息を漏らすような小さな笑いが聴こえてきた。煙がくるくる立ち上って消えていった。あとで自販機でカルピスを買ってもらったけど、ごねて食事も作ってもらった。